164 / 203
episode.8-8
蹌踉と人並みを避ける。
タクシーを後にして、一端事務所で所用を済ませた。
(寒い)
真冬の世界を急く。
襟を寄せる。息は白い、それなのに。這い募る影に冷や汗が止まない。
一歩、二歩、恰も救いを求める様に会社を目指す。
いつまでも自分だけが隘路に迷い込む。
道行く人は、清々しく風を切るのに。
誰しもそれなりに辛い経験などしている。
なのに自分だけが、いつまでも自分だけが悲嘆に暮れている。
“私、もうあの子の担当を続ける事が”
白い廊下で彼女が涙ながらに嘆願した。
次の朝、萱島の部屋には直に臨床心理士が訪れた。
普通の子供なら巣立って行った。
自分だけがいつまでも、泥濘から立ち上がれず。いつまでも勝手に閉じこもり、些細な引っかき傷でのたうち回る。
妄想の影に追われ、いつまでもいつまでも暗闇を恐れ、何もない日常に苛まれて。
「…あ、」
人混みを避け、それでもすれ違いに失敗して肩がぶつかった。
「すみません」
謝罪だけ滑り出た。
然れど踏み出そうとして、胸を止められた。
反射的に顔を仰ぐ。
現実を疑った。目前に居た男に。
「驚いた」
苦しい。ではない。
事実として息が出来ないだけで。
死んでいるのかもしれない。
「邂逅とは思い難いな」
闇を掻き立てる声。
もう10年近くは聞いた音。
それに見合う瞳。
直視するには、余りにも抱く感情が複雑過ぎて、全身が拒否を示した。
「良い展開だ、手前を一度殴りたくてよ」
視界に副流煙が立ち込めた。
萱島のフィールドを埋める。視覚、聴覚、嗅覚。
全部熟知していた。投げ捨てた筈の、過去であっても。
「…霧谷」
笑みを象る。彼が右手を振り上げた。
余りにも覚えのある光景だった。
付随して色んな物が姿を現した。
何も出来ない。ただ当然の反応として、萱島は両目を固く閉ざした。
ともだちにシェアしよう!