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episode.8-11
これ以上怯える意味は無い。
鷹は捕食する力も失い、先から生暖かいものを零しては、胸部を濡らしていた。
「…、この」
撃った相手を睨む。
男の瞳に怒りを覚悟する。
なのに向き合い、近づき、言葉を失くした。
唇に触った。
間際の温度と、血の味に。
呆然と口付けた相手を覗き込む。
最後に見た霧谷の目は、想像を絶するほど悲しい色をしていた。
「…馬鹿野郎」
全ての幕引きで罵倒を発した。
真逆な瞳の色に、萱島は凍り付いて呼吸を止めた。
身体が崩れ落ちる。
もう中身の無い殻を、無意識に胸に抱き止めた。
そうして全部の音が消え失せた。
仄暗い部屋で、萱島は独りかさついた唇を噛んだ。
霧谷。
お前はどうしたって、大切な人間なんかじゃない。
お前に受けた傷なんて数えきれないし、お前が最低なのは誰よりも承知している。
肩口に顔を埋め、ほんのり懐かしい空気に酔った。
久方振りに目にした、部屋の情景でさえも、辛い。
なのに霧谷、もう一つ事実がある。
辛うじて仕舞ってある、ドアを割って押し入った少年の顔立ちが蘇る。
隙間から光が漏れ、逆光に細部のぼけた、それでも切り裂く様な鋭い双眼の持ち主。
「…お前が居なきゃ死んでたんだ」
当時だけでない。
その後、生き地獄の様な日々の中
手酷かろうが暴力を振るおうが、全てを知り、尚且つ側に居た。
此処に来てそんな昔が、途方も無い事だった気がした。
「お前が、離れなかったから…」
暫く座り込み、整理を付けようと蹲っていた。
動けない萱島の傍ら、不在着信を示すライトが光りはっとする。
(そうだ、会社)
やっと今に引き戻され状況に惑った。
霧谷を寝かせ、漸く震える膝をついて立ち上がった。
「…あ、お忙しい所すみません、仕事をお願いしたくて」
仕事で知り合った、回収業者に連絡を入れる。
何時迄も困惑している場合でなかった、次が差し迫っているのだ。
「ええ、振込で…宜しくお願いします」
電話を切り、改めて横たわる姿を眺めた。
黄泉の国があれば間違いなく地獄に行くだろう、男は存外に安らかな面持ちだった。
そう前に。
萱島は屈み、震える手で遺体のネクタイピンを奪う。
最後に身体を屈め、まるで伝え残した件を捧げるように口づけていた。
もう二度とこんな気持ちはごめんだ。
何かを喉奥へ飲み下し、萱島は漸く振り返らずその場から歩き出す。
リビングへ続く廊下の奥では、追ってきた幻影がじっと佇み光景を見ていた。
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