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be a little tipsy

(単にいつもの沙南ちゃん→社長) ふわっと夢が霧散して弾けた。 そういう時例外なく、現実との入り口で揺蕩った。 ぼんやり四肢を投げ出したまま。萱島は未だ靄の中に居る。 それが今日もかたん、と微かな物音に引き上げられた。 (あ、) 直ぐ様首を擡げた。 ずるずる絡みつく睡魔を千切り、冷たい空気へと這い出た。 廊下を過ぎて音源へ向かう。 彼が帰宅する時間になって、自ずと目が覚める仕様になってしまった。 姿を見ると、安心して仕方がない。 (……) キッチンの椅子に掛ける神崎を認めて、唇を噛む。 依存の塊は自覚していた。 原因が知れないだけで。 「おはよう」 携帯を弄る雇用主から声が掛かり驚いた。 午前4時だ。 「…お早う御座います」 「お前今日休み?」 「あ、はい」 2つ引っ掛かった。 先ずあしらわない。 それでいつもの小馬鹿にした「ちゃん」付けもない。 萱島は殆ど首を真横に傾ける。 取り敢えず椅子を引き、すぐ傍らに掛けてみた。 「神崎社長」 「ん?」 「何処行ってたんですか?」 「飲んでた」 言われてみれば高い酒の匂いがするようなしないような。 どうせまた妙な繋がりの曰く友人だろう。 片やイルカの密漁業者から銀行の頭取まで、この男の電話帳には、普通に生きていれば大凡接点のない人間が犇めいていた。 「…誰と飲んでたの」 「さあ」 「お土産はないの」 「ないよ」 全部短い。けれど端からきちんと返事が貰えるのだ。 萱島は結局席を立ち、首に腕を回して抱き着いた。 何だか今は許されるどころか、構ってくれるのではないかと期待を込めて。 「しゃちょう、ねえ」 「何だよ」 「今度一緒に飲みに行こうよ…」 約束を取り付けても間際で躱される。 その辺のご近所ですら、2人で行けた試しがない。 忙しいを盾に取られるのは不満だった。なんせ、ちゃっかり何処の誰とも知れない人間とは時間を作っているではないか。 「…聞いてる?」 反応の失せた相手を覗き込んだ。 睫毛が長い。その下に奇跡的な虹彩がある。 萱島は時折、本気で思ってしまう。 寧ろこの存在そのものが稀有であると。 「沙南ちゃん、それより珈琲淹れてくれない」 何故人を使う。萱島の表情が険を増す。 それとも単に退いて欲しいのか。 「淹れたら飲みに行ってくれるの」 「はいはい」 じっとりと睨め付け、不承不承腕を外した。 取り付けるまでは簡単なのだ。 「…じゃあ誓約書書いて」 問題はその先だ。 突っ立って恨みを孕んだ視線を寄越す部下に、神崎は致方なくスーツからペンを出した。 些少なりと酔っているのか。 普段なら放ったらかしの事を逐一対処してくれる。 片手を伸ばす。神崎は両利きだ。 ただペンを握るのは決まって右だった。 それがレシートの裏に均整の取れた字を紡いだ。 ようやっとポットで湯を沸かしながら、萱島はぼうっとその光景を見ていた。 「“俺は今度お前と飲みに」 「もっとちゃんと書いて下さいよ」 「“神崎遥は萱島沙南ちゃんと飲みに行きます”」 「…いつ?」 次第にポットが音と湯気を吐き出す。 フィルターを自分の分も準備しようとして止めた。牛乳が切れていたのを思い出した。 ペンを机上に投げ出し、神崎は逡巡していた。 ただ誓約書の内容では無かった様だ。 彼は暫くしてレシートを引っ繰り返し、怪訝な声を出した。 「俺コンビニなんていつ行ったんだ」 「…酔ってるんですか?」 否定が返されたが萱島は呆れたままだった。 ポットは仕事を終え保温のライトを灯す。ロックを外し、インスタントに産物を流し入れた。 芳香が立ち込める。 この話も流されそうだ。眉間に皺を寄せ、色を変えた液体が落ちるのを睨み付けた。 「沙南」 ぽつんと名を呼ばれた。 先の不満を残したまま、憮然と振り返った。 頬杖を突いた神崎が、珍しくじっと見ていた。 「お前髪伸びたな」 「…ん?」 けったいな事を聞いてしまった。 気を抜けばポットを滑らせる所だった。 「そりゃ、人間なんだから…伸びるでしょうよ」 「ちょっとおいで」 「はあ…?」 今度こそ声が引っくり返る。 あしらわれこそすれ。社長に手招かれた例など無い。 その場に縫い留められ、目を白黒させる相手を他所に、雇用主は尚も近くへ呼び付けた。 「良いから来いって」 「や…ですよ何、さっきから…こっち見んな!」 仕舞いにはそれ以上退路が無いのに、必死にいざろうとする。 過敏な部下を訝りつつ、結局神崎は勝手に力で引っ張った。 「あっ」 とんと膝の上に落ちる。 まっさらな目を瞬き、暫くして、状況を見た萱島は途端に大人しくなった。 何故膝に座らせた。 言いたい事はごまんとあったが、まともに前が向けない。 そうこうしている間に、伸びた手に髪を掬われた。 (っ!) 「益々似てきたんだよな」 しみじみ感触を確かめながら語る。 不必要に鼓動を走らせ、萱島は恐る恐る問うた。 「な、何に?」 「御坂が昔飼ってた、あの…何だ、ハムスターよりでかい」 「…モルモット?」 「そうそれ」 何がそうそれだ。 不躾極まりない。 みるみる表情を喪失し、正面から睨め付けた。 「お前、あんまり髪切るなよ」 もう耳を傾けたくもない。 不機嫌を顕著に醸しながら、それでも反応せずには居られず、理由を促す。 多分、酔っているのだろう。 否、確実に酔っているのだろう。 あっけらかんと神崎は告げた。 「俺が触りたいから」 ぷっつん。頭の奥で何かが事切れる。 衝動的に目前の胸ぐらを掴み、萱島は項垂れた。 「…黙れバカ」 「何?」 「うるさい」 何だこれ。 取り上せて顔が熱い。 腹立たしい。 顔が上げれない。 苦し紛れにネクタイを握って、シャツに埋める。 何がモルモットだ。 もう少し慮れ。畜生。 「眠いのか?」 その優しい声は何処から出しているんだ。 変わらず手は襟足を梳いて、本格的に追い詰められてくる。 宜しくない焦燥だった。 どうせ自分は御坂先生の研究所で量産されていた、毛玉程度の存在だと言うのに。 神崎の手を掴み、苦言を呈した。 「…触んないで」 紅潮の隠せない頬で。 心なしか不機嫌を乗せた萱島に、相手は動きを止めた。 「何だお前」 「……」 「普段はベタベタしてくる癖に」 「…うるさいなあ」 バツが悪く視線は逸らす。 その内耐え切れず、さっさと膝の上から身を起こした。 そうして黙って完成した珈琲を掴み、些か乱暴に机上へ叩きつけた。 不思議そうに追っていたものの、神崎は未だ湯気の立つそれを取り上げた。 「まあ子供は寝る時間だな、お休み」 最後まで癪に触る。 自分の方が、よっぽど質が悪いじゃないか。 然れど言い返す台詞も見当たらず、早々に自室へと踵を返した。 滅茶苦茶に目が冴えてしまった。 せっかくの休みが。 廊下の中途で手の中の物に気付いた。 レシートの裏に書かれた誓約書が覗く。 1人で煩悶した後。 萱島はそれをゴミ箱へと投擲しかけ、結果舌打ちして上着のポケットへと突っ込んだ。 2016/7/4

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