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御坂先生とおやつ
「いらっしゃい」
図ったかの様に開かれた入口を潜ると、いつも清涼な白い背中が出迎える。
背筋の伸びから、空気からどのシーンも寸分乱れない。
初めは恐怖を覚えこそすれ、時が経つと不変への安堵に変わる。
「どうしたの」
「…近くに来たので」
言いかけて、そんな間柄でない事に気付いた。
萱島の視線が宙を惑う。
医者としての包容力に引っ張られているが、この男は身元すらはっきりしない。
おまけに死の概念そのもの。タナトスの化身だ。
「そう、其処に座ったら良いよ」
御坂は書面を見詰めたままだ。
忙しい様で、此方としては益々居心地が悪くなった。
仕方ない。何となく雇用主と似た根っこを感じたのだ。
涼しい研究者の主に、萱島は勝手に懐き始めていた。
「その…お忙しいですか」
「気にしなくて良いよ。上が逐一紙に起こさないと発狂する強迫障害でね」
続きを請おうとして引っ込めた。
硝子の向こうで反射光が生まれた。
この男の上司とは即ち国だ。
これ以上は何も聞くまい。黙り込んで数分、静かになった相手に御坂がようやっと面を上げた。
「…えらい静かだねえ、大丈夫?どっか痛いの」
「え、いやそういう訳では」
それ程普段騒いだつもりもない。
大体が話ありきの雇用主と来るのだから、隣で大人しくしていた筈だった。
「それとも頭の悪い職員が粗相でもした?」
確かに毎度1時間の検問は酷い。
「ごめんね態度だけは宰相並みでね、今度頭ブチ抜いて大脳挿げ替えとくよ」
「申し訳御座いません命だけは勘弁して下さい」
「…どうして君が怖がるのさ」
思わず我が身かと顔面を覆う。
今日も漏れ出る狂気に青褪める。
前々から螺子が数本取れているとは思っていたが、そもそもこの施設事態部品が足りない。
その位でないととてもやっていけないのかもしれない。
「そんな顔をするものじゃないよ、お茶でも淹れてあげよう」
尚も柔和な笑みに眉尻が下がった。
雇用主みたく胡散臭くもない。
人柄が滲み出たかの様な、温かい色。
恐ろしいアンビバレンスに縛られる。
何故か魅了するカリスマとは、こういう人種だ。
「ねえ御坂先生」
「なあに」
チョコレートの包みを手渡す男に、何時もの如く口を開いて逡巡した。
制約が多いから、何を聞いて良いのか分からない。
「…目薬って差した方がいい?」
御坂が瞬く。
萱島は稀に突飛だと言われるが。連想の経由が少ないだけで、今も世の医者にとって無難な問いを引き出したつもりだった。
「そうだね」
「嫌いでも?」
子供と寸分変わらぬ回路に、次は声を上げて笑った。
「君は特にね」
「…最近右目だけ見え辛いから、気を付けます」
角膜の提供元を思い出し、文末に付け足した。
ソーサーを並べていた御坂が上体を起こす。
そしてごく自然に間近に気配を移し、医者の目でこっちを見ていた。
白衣から(彼は外科医だから瞳孔所見用であろう)ペンライトを出す。それを両目から十分な距離で灯らせた。
「眩しくないかい」
「…大、丈夫」
「上見てごらん」
ふいと顎を掬われた。
綿飴みたいな声が落ちてきて、此処は小児科だったかと錯覚した。
親指が目の下を引っ張る。
橙っぽい光にぼかされ物の輪郭が消えた。
「下見て」
不思議なもので。
医者の言の葉には、誰もが大人しく耳を貸す。
「痛みは?」
「全然…」
「そう」
ペンライトが消えた。
目の端に残像がちらつき、頻りに瞬きをする。
矢先、萱島は身を竦ませた。
肉眼で診るべく眼鏡を外した彼が、隔ての無い瞳を真っ直ぐ向けていた。
(うわ)
何故だろう。見てはいけない心持ちで、一寸焦点を脇へずらす。
緊張に呼気が引っ込む。
時間にして数秒だったが。目視を終えた御坂が手を離すや、底から安堵の息が漏れた。
「ふむ、大凡は大丈夫そうだけど…細かい傷までは見えないからきちんと眼科に行っておいで。片目だけ悪いなら矯正した方が良いからね」
「あ、はい…有難う御座います」
素直に謝礼で締めれば良かったものを。
ついつい性格から余計な所感を付け足した。
「御坂先生」
「ん?」
「裸眼だと目つき悪いね」
「…君の率直さは時に仇だよ」
無表情で明後日を見やる様が、見事に雇用主へオーバーラップする。
根拠の無い物差しで測るのもなんだが、AB型は皆こうなのか。
「お菓子食べたら暗くなる前に帰りなさい」
完全に子供への“お約束”を告げて、さっさと仕事に戻ってしまった。
不快感は無い。彼の場合誰に対してもああなのだから。一体何世紀跨いでいるのだろう。
憚りもなく包み紙を開けていると、机上に撒かれた書類の一端が目に入った。
『――期日呼出状
所長 御坂康祐 殿
①貴殿は度重なる規定違反への警告に関わらず、改善の姿勢が見られなかった。よってここに本委員会への出頭を命ずる。
尚本令に応じなかった場合、貴殿の一切の職位・権利は剥奪されるもので――』
「御坂先生」
「今度は何だい」
「上の人に怒られてるの」
「ああ、それ…毎月来るんだよね。登録もしてないのに、気にしなくていいよ」
そんなメルマガみたいな。
高そうな箱を黙々と空にしつつ、萱島は最早人かも疑わしい男を盗み見た。
紅茶もお菓子も文句なしに美味しいものの。
この独立国家へ気軽に訪れるには、未だまだ時間を要しそうだった。
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