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(memo-3)

頭が痛い。骨なのか肉なのか胸の内なのか、良く分からない部分が痛い。 全身が寒い。どれだけ外装を固めても、内側から毒素の様に寒気が滲む。 もう嫌だ。萱島は億劫に寝返りを打った。 体内の暴走に反して部屋は無音だ。 切なさを助長し、眼の奥がつんとする。 (珈琲ゼリーが食べたい) 退っ引きならぬ悪寒に襲われておいて、未だ欲求は食に傾いている。 コンビニまで100メートルはあったから、求めるのは大分困難だ。 静寂を壊して携帯電話が震えた。 鉛の如く重い身体を起こす。 発信元も確認せず応答した。 但し声は出なかった。 『起きて平気か』 耳に落ちた音が、ささくれた心を撫でる。 こんな時つくづく得な声質をしている。 柔らかい雇用主の問いを、萱島はどうにか肯定した。 『何か食べられるか』 「…え」 珈琲ゼリー。 先まで浮かんでいた物がぐにゃんと揺れた。 どうしてそんな事を聞く。まさか帰ってくるつもりなのか。 只でさえ会社を休んで迷惑を掛けた自覚があるのに、態々帰って来て欲しくはない。 いつもの甘え放題は何処へやら。 奇妙なほど殊勝な態度を持ち出して答えを絞った。 「…大丈夫です」 回線を切る。 そのままシーツに放り、自身も隣に身を投げた。 ずんと静けさと倦怠感が押し寄せる。 いっそ抗えない睡魔に委ねられたら良いのに。 手も脚も出ないまま、単に規則的に切り替わるディスプレイをじっと眺めていた。 それでどれ位経っただろう。 遠くで微かに、ガチャンと錠の外れた音がした。 首を擡げた。 一分も過ぎぬ間に、今度は部屋のドアが開く。 思わず身を竦める萱島を、コンビニの袋を携えた神崎が突っ立って見ていた。 やっと眠れたのかと思った。夢だと勘違いして。 「おはよう」 歩み寄った姿がベッドに腰を降ろす。 赤い目を瞬いた。やけに現実味のある夢だ。 「ちゃんと寝たか」 ぼんやりしていたら首を触られた。 ひやっと、ある筈のない触覚が機能した。 首を竦めて混乱した。本当に帰って来たのか。何のために? 戸惑い一つも口を開かない相手を他所に、神崎は買ってきた物をサイドテーブルへやった。 珈琲ゼリー。覗いたそれに唇を噛む。 理由も知れず涙が滲んだ。 「お前薬飲まないといけないから、何か食べな」 「…はい」 悄然と、しかし聞き分け良く頷く。 熱で頭が溶けそうなのだ。それで致方なく、電話をして休みを貰ったのだ。 そうしたら頼んでもいないのに、彼が帰って来た。 普段は要求してもくれない、親みたいな優しさまで携えて。 「この部屋寒いだろ」 首を振る。 「沙南」 まるで窘める様な声が飛んだ。 ぐしゃぐしゃ柔らかく、長い指が髪を掻き回す。 その感触だけで、下を向いた両目から勝手にぼたぼたと雫が落ちた。 「本当に難儀な奴だな」 「……」 「しんどい時に甘えない」 だって不利益を出したのだから、怒られると思っていた。 泣いたらまた呆れられると思った。 なのに温かい手が濡れた頬を拭っただけで、萱島は地に脚もつかず。縋るみたく布団の端を握り締めた。 (風邪っぴき沙南ちゃん) 『――…お早う御座います皆さん、日々の業務お疲れ様です』 左耳から班長代表の萎びた挨拶が流れ込む。 『えー、本日も繁忙期につき…朝礼はインカムで失礼します。スケジュールはシステムを見て下さい。寝てないアホは5分寝て下さい。B班優先でヘルプ入って下さい。進捗…昨日の進捗は…進捗なんてありましたっけ』 『12.5%です』 数人が机上に突っ伏す。 そのまま動かなくなった。 千葉ですら親の仇の様な目で未来を睨んだ。 見兼ねた萱島がインカムのスイッチを手繰り、割り込んだ。 「お疲れ様です、君達…言っておきますが出来る範囲で良いんですよ、どうせ遅れても最終的に困るのはあの牧場主だとう言うのをお忘れなく」 『そういう訳です、俺達の人生は会社ではありません』 「来月から交渉の末、深夜の残業手当が上がります。しかし金を稼ぐ前に、人として、人として生きて下さい、以上」 どんな朝礼だ。 突っ伏していた者が意識も朦朧と首を擡げた。 訴訟を起こせば勝てた。労基云々以前に、憲法13条からして違反している訳で。 『尚、嬉しいニュースも御座います。本日間宮班長の誕生日という事で――…孝司くん、おめでとう御座います!』 『おめでとう!』 『直接言えや。有り難う』 『それでは本日も宜しくお願いします』 生きる屍が挨拶とも言い難い、呻きを漏らした。 さて。今日も元気で楽しい朝が幕を開けた。 (RIC本部朝礼) お年玉は幾つまで渡すのだろう。 自分の子であれば、お節介から何時迄も世話してやりたくなるが。 例えば親戚だとか、近所の子供だとか。 そう、親友の息子だとか。 「……」 「御坂、茶」 この子達は一体何の用事があったのか。 今日も来客用のソファーにふてぶてしくふんぞり返る、果ては現れた所長を捕まえて茶を要求する様に、さしもの御坂も笑顔が失せる。 彼だけなら未だしも、普段は行儀の良い親友まで一緒に脚を投げ出しているのだから。 「日本茶な、この前のやけに甘い紅茶は要らん」 あれは正直誰が買ったかも分からないしもう無い。 在庫処分で出したが、矢張り不味かったか。 「…君たち忙しいんじゃないの」 「そう忙しい中態々寄ってやったんだよ、泣いて良いぞ」 追い返す程で無いにしても。 この面倒な27歳の悪童、掛ける2。 何故か度々御坂の所にやって来ては、好き勝手して去って行く。 最近はその部下の小さい子も来るし。知らない間に託児所にして貰っては困る。 「本郷くんもテレビ見てる位なら寝たら」 「五月蝿えよ、話し掛けんなバーカ」 「何で僕にだけそんな反抗的なの」 どうも神崎の態度が移ったらしい。迷惑極まりない、正直苛つくから殴りたい。 お父さんには宜しく伝えておく故、茶を飲んだらさっさと追い返す事にしよう。 大体押し掛けておいて、話し掛けるなとは何事か。 構って欲しいのか放っといて欲しいのかどっちだ。 「…君らさあ、その中二男子みたいなスタンスどうにかならないの」 「何の話だよ」 「大方仲悪い方が格好いいとか思ってるんでしょ、馬鹿じゃないの」 都合の良い時だけ聞こえない振りか。本当に子供か。 御坂は嘆息して給湯室へ踵を返した。そして一番安い茶葉を大雑把に注ぎ込んだ。 躾の一環として。 (我儘言いたい人々)

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