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もしものお話

※もしも沙南ちゃんが社長への感情を自覚したとして 例えるならカラカラの喉に水を放り込む様な、安眠を齎す毛布の様な。 生きるためのエッセンスと化して、いつからか、欲求階層の最下部に入り込んでいた。 高い身長。大きな手。 解けるくらい柔らかい声。 それから、殆ど色素のない硝子みたいな瞳。 「美しい人ね」 星が散らばった夜のオフィス街、隣で取引先のマネージャーが代弁した。 驚く萱島が伺うや、あらごめんなさいと言った体で。口元を覆い、けれど次には憚りもなく名刺を挟んでくる。 「彼みたいな男、値段の予想がつかないわ。でも幾ら叩いても会いたいから宜しく伝えておいて頂戴」 片目を閉じた。長い黒髪が車内へ消える。 19時の冷たい空気を汚す、香水の匂いだけ残して。 (伝えておいてと言われましても) 露骨に不機嫌な萱島は唇を噛んだ。 これが初回じゃない。乾いた風が残り香を飛ばし、春の天候下でくしゃみをした。 「――あれ、帰ったのか?」 気づけば雇用主が目前に立っていた。 素知らぬ顔で、姿のない取引先について尋ねる。 美しい人ね。先の評価を反芻して、ちょっと居心地が悪くなる。萱島は口紅のついた名刺を神崎に押し付け、自分も車へと歩を進めた。 「社長のこと嫌いだって」 「へえ」 「もう二度と連絡しないで下さいって言ってた」 いつまでも子ども子どもと言われるのも、こういった所以だと。 自覚はあれど、萱島は直す気もない。 口紅の横に手書きの番号。神崎は電話を寄越すのだろうか。 少しでも可能性があるなら、今さっきゴミ箱に捨ててやれば良かった。 (…何だこのモヤモヤ) 「じゃあ俺はこれから人と会うから」 「えっ」 即刻で振り返る。 過剰な反応に眉を寄せられたが、今日はてっきり一緒だと思い込んでいた。 「だ、誰と?」 「お前は何だ、逐一俺の行く先を把握しないと気がすまんのか」 「そうだけど…あ、いやそうじゃないけど何で。ごはん行こうって言ったのに」 そんな。 萱島の視線ともども、語尾が落ち込んで消え果てる。 こんなにパニックに陥る原因も分からない。不可思議な言動を、神崎は首を傾けて見ていた。 「別に何時だって行けるだろ」 それとも何だ。今から向かう大人の会合に、異議を唱えたいのか。 親離れ出来ない甘えか、ぬいぐるみを奪われた駄々か、否。 「…いつもそう言って後回しじゃんか。そっちだって何時だって行けるのに、最近ちっとも…」 必死に見上げる、萱島とて意図しない熱に、両目が水を湛えていた。 本人も気づかぬまま孕んでいた情を、神崎はよもや掴んでいたのかもしれない。 「なに、お前…俺のこと好きなの?」 怪訝な目で問うた内容に、はたと小さな身体が止まった。 2人の隙間を、さらさらと夜の風が流れる。 髪を幾つか攫われたのち、それでも冷えない頬のまま萱島は零した。 「…うん」 信号が色を変え、走りだした車体が次々に世界を過ぎる。音が溢れ、光にぼやけた一帯で漸く我に返った。 自身が最も驚いて、元から大きな目を見開いて神崎を見据える。しっかり接着された姿を置き去りに、背景だけが次々と形を変えて流れていった。 秒針は、軽く一周したと思う。 萱島の睫毛が震えた頃合いになって、長い指先がその頬を擽った。 肩が跳ねる。温度が、つうと輪郭を掬って身震いを呼び、都合良く上を向かせる。 綺麗な瞳。萱島の好きな瞳。 現在までで最も、間近にある。まさか、もしかして。 勝手にこの先の行為を警戒した。心臓が掴まれ、痛くて堪らない。 彼が身を屈め、気配が直ぐ前に迫る。 萱島は固く目を閉じ、一層身を竦ませた。 「…ガキ」 ぱっと視界を開ける。 全身で逃げた身体に飛んだのは、冷めた呆れだった。 神崎の体温は離れ、結局喧しい心臓だけが取り残された。 「社長は子どもに興味ないから、じゃあな」 軽く指先が額を弾いた。びっくりして後ずさった。 (そんな…) そんな、つもりじゃ。 食って掛かろうとする。然れどもう、手を振る神崎は背面を向けていた。 依存しているのは分かってる。無闇矢鱈と絡むのも、視界に映ろうとするのも他人を排して一番になろうとするのも。 分かってる、けど。そんなつもりじゃなかった。 颯爽と街に去って行く彼を追って、弁明したかった。もうこの先甘えるための建前を、今でぜんぶ剥ぎ取られた気がして。

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