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融解点
※Ifシリーズ本郷さん篇
「ring」の続きが思い浮かばず、改めて始まりを想像しました。
久方振りに2人きりで街を歩いていた。
実に数ヶ月越しだったと思う。
萱島が神崎のマンションを出て、一人暮らしが始まって、出会う回数すら劇的に減ってしまってから。
やっとじっくり眺められる横顔を、降り続く雨に遮られながら追う。
幾分か血色は良くなっていた。
何処となく付き纏う憂いはいつものこと、落ちる睫毛の影から切れ長の目から、矢張り常軌を逸して綺麗なつくりをしていた。
「休みなのに人通り少ないな」
今日も自然、道路側を歩く。
本郷の歩調は小さな萱島に合わせつつ、緩やかに先をリードする。
「…雨だから?」
「だよな。明日の夜まで続くんだと」
それは随分と長い。ぼやり上の空で、てくてくと濡れたアスファルトを過ぎる。
視界は次第に気温と共に下降し、跳ねる雨粒ばかりになる。
そして偶に横切る、誰かの脚。コート。鞄。
時折思い出した様に車がさっと加わり、音を吸い取っては静寂を残した。
静かだ。
会話のない傘の中、冷え始めた手を擦る。
ただでさえ人気が少ないのに。環境でなくとも、萱島は本郷と歩く際、大抵大人しくしている。
元は間を埋めなくて良い信頼であったり、勝手に自分に敷いたルールであったり。
いつそうなったかは分からないが、相手も同じく、心地良いと感じていればいい。
「もう買うもの無いか?」
「うーん…うん、ない」
「ふうん」
だから本当に珍しく。
稀に本郷が垣間見せるように、適当な返事をするのが好きだった。
まるで自分だけが仕切られた、彼のパーソナルスペースに招かれた心地に嵌って。
萱島には、親友と呼べる人間は居ない。
何ら衒わず、気後れもせず、空気で同調できるような存在はない。
(けど、もしかしたら)
ちらりと斜め上の相手を再び、仰ぎ見る。
今度は視線が返ってきてしまい、少々擽ったくなった。
「何だよ」
茶色い目が細まる。
生きる術で用意される微笑みは、今は出番もなく休んでいる。
「…明日はどっか行く?」
「いや、家に居ると思う」
「じゃあ一緒に居ていい?」
二つ返事で了承してから、不意に本郷が両目を瞬いた。
見詰められる恥ずかしさを悦びながら、萱島は隣で相変わらず聞き分けよく、ペースも乱さず付いてくる。
「当たり前だろ、良かった…俺だけが楽しいのかと」
まさか同じことを考えて、先に口に出されている。
急に胸を鷲掴まれ、萱島は息苦しさにつっかえた。
不思議だ。友情は時に、こんな切ない味も齎す。
悪天候に晒された肌が冷たく、くっつきたい衝動に駆られる。
隣に居るのが神崎であれば、萱島は間違いなく手を伸ばして、序に駄々をこねていた。
「…そんな訳ない」
感情は綯い交ぜで鬩ぎ合うのに、結局形になったのはそれだけだった。
ぐるぐる発散し損ねたものが、胸中で行き場を失って痛かった。
明日が終わったら、明後日になるんだな。
そうしたらまた元の日常が来て、会わない毎日が続くんだろう。
今、隣を歩いているのは非日常なのか。
現在に影を差すくらいには、悲し過ぎる響きだった。
黙って前へ進みながら、さっき袖を引いて抱きついたらどうなっていたか考えた。
考えたところで反応なんて決まっていた。
ほんの刹那驚くのを引っ込めて、優しく背中をあやしながら砂糖を含めて笑うのだ。
別段、困ることなんて無い。
じゃあ何故、そうしなかったんだ。
薄いジャンパーの襟を、口元まで無理やり引き上げる。
寒がる相手を察した本郷は、矢張り「早く戻ろう」と気遣いから促していた。
『――凍える季節が来る、独りの日が続かないよう』
徒歩で過ぎる街は、開いた口から感傷的なJ-POPを注ぎ込む。
以前までは気にも留まりやしなかったのに。
予報通り泣き止まない空が世界の色味を奪い、強制的に五感を鋭くさせる。
『貴方が忘れた昨日、私が留まる今日、何も無い明日からは』
哀しい歌ばかりだ。
人間を簡単に揺さぶるのは、何時だって正よりも負のエナジーだから。
(まだ買うもの無かったっけ)
終わりが見えた途端、往生際悪く足掻いていた。
何だか月曜日の襲来に逆らい、遊びから帰りたくないと地団駄を踏む子供みたいだった。
(…あれ)
然れどもう家の間近だった。
顔を上げれば見知った空間が包んでいて、一挙に現実へ戻された萱島が落胆した。
「寒いだろ、帰ったら珈琲淹れような」
「う、ん」
不自然に引っ掛かってしまい、案の定心配する彼の目に後悔する。
せっかく2人で居るのに、どうして勝手に仄暗く落ちているのか。
水溜りを不必要に踏んで、萱島は自分のさざ波を誤魔化す。
マンションに着くまでの間、元々少ない会話は消滅していた。
並んで歩いていたのは、知らず知らず萱島が斜め後ろへ遅れる。
雨脚は反して、傘を殴る如く増す。
いっそ靴までびしょびしょに濡れて、滅茶苦茶に心配されたかった。
結局それか。迷惑は掛けまいと決意しておいて。
最後には構って欲しさに、困らせたい衝動で一杯になる。
例えば今、豪雨の中で突然脚を止めたら。
本郷は数秒後には気が付いて、彼の子供にするみたいに優しく戻ってくるだろう。
そう。子供にするみたいに。
「…萱島?」
意識しない儘にエレベーターに乗り込み、最上階へ到着していた。
「もう着いたぞ」
怪訝そうな彼が、扉を開けて覗き込んでいる。
何か声も出ない。思わず目を逸らして、勝手に部屋に向かって先へと追い越していた。
鍵を出して、冷えた扉を開けようとした。
訳の分からない焦りを抱く。
認めたくない気持ちから逃げていたら、鍵はガチャガチャと喧しいだけだ。
やがて開けられない萱島の背後へ彼が追いつき、そっと悴む手から鍵を奪い取ってしまった。
「、あ」
ガチャン、と甚く簡単に錠が開く。
何も言わない本郷がドアを押し、薄暗い玄関が目前に広がった。
そのまま心配するでもなく、動けない萱島を室内へと促し、後ろ手に扉を閉める。
灯りも無い夕方の玄関、カチカチとアナログ時計の音だけが満ちている。
何か紛らわそうと口を開きかけ、言葉が思いつかない。
縋る様に見上げた萱島は、知らずずっと見返していた視線に固まった。
肩を抱く手が背中へ回り、長い指が身体を包み込む。
ふと視界が陰った頃には、唇は温かかった。
屈んで、口付けている事実も飲み込めず、ただ相手の長く落ちる睫毛の影を見ていた。
柔らかく、何度か離れたそれが、また慈しむ様に重なる。
頬を取られ、角度を変えられた頃合いになって。
萱島は漸く現状を理解し、瞬く間に指の先まで火照らせていた。
「――……」
身体を支え、じっと覗き込む彼と目が合う。
思考をすべて一掃され、只管に真っ赤な面でその視線を受けていた。
展開の突飛さに、現実から脚が浮く。
ふわふわ覚束なく、自分が何処に居るかすら分からなくなる。
それくらい強烈で、前触れのないキスだった。
「萱島」
先までの寒気が嘘の様だ。
吐息で名を呼ばれて、肩に、背中に大きな手が降りてくる度に。
触覚が過剰に機能して、熱くて堪らない。
襟足に指が差し込まれた辺りで、遂に全身が戦慄き始めていた。
恐怖に起こされた訳じゃない。
怖いだとか辛いだとか、そんな次元まで考える隙間は無い。
彼は、本郷は、棒立ちの姿を見守る。
震える背中を認めて、甚く大切に抱き締める。
柔らかいシャツに額が埋まる。温かくて、何時もはほんの微かな甘い匂いが、萱島の世界を覆い尽くす。
「今日、どうした?」
みっともなく強張ったまま、身体の芯へ声が流し込まれた。
本郷は子供に話す際、そっと語尾を伸ばす。
今はそれと違う。でも隣りに居た彼とも違う。
一見ただ優しい様で、その実、髪の毛の先までざわつかせる色を含む。
「分かんないか?」
喉を竦ませる萱島に、無理矢理督促なんてしない。
ただ溶かすみたく、頬を擽るだけ。
空間ごと飲み込みそうな気遣いに、萱島の焦燥は次第に収束しだした。
感触のいい布を手繰ったまま。消え入りそうな答えを捻る。
「…たい、」
「ん?」
「痛い」
決して間違いではない。しかしただの現象だ。
内に閉じ込めた正体不明の影は見て見ぬ振り。
懸命に言葉を吐いた相手を褒め、本郷は髪を撫でやった。
「じゃあ何処が痛いか、教えてくれないか」
防御して頭を振る。
気の所為かもしれないのに、覗き込んで心配する目が、何故か余計に痛みを増長させていた。
「、なくて…いい」
「どうして」
「…っ、ふ」
負担になりたくない。呆れられたくない。
本郷にすら見捨てられたら、もう生きていけない。
「幾らでも甘えろよ、頼むから」
でも突っぱねた腕も簡単に競り負けた。
先よりぐっと抱き竦められ、身体の髄から砕けそうになった。
「俺でいいなら、何だってしてやるよ」
そんな言葉を吐いたら駄目だ。
発熱が目元まで込み上げて、力も入らず零れ落ちる。
いつの間にか脚元へ広がっていた水溜りが、急激に増水し、腰元を過ぎ。
首元まで競り上がって、とうとう呼吸出来ない迄に嵩を増していた。
玄関で今日、抗っていた海に捕まってしまった。
胸どころか総身が苦しく、酸素をくれるのは。
目前に居る本郷だけだった。
2017.10.7
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