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不思議の国のはなし
「おなかが痛い」
ミーティングから帰ってきた御坂は、ソファーの上で蹲る生き物を覗き込んだ。
「あたまが痛い」
「両方痛いの?」
もぞもぞ、出掛けに被せたブランケットに蹲る。
掛けてやった言葉にも反応なく、萱島はまた何処から出しているのかも分からない呻きを発した。
今朝、面倒を見兼ねた神崎が放り投げていった。
御坂とて忙しく、昼前の今ままで構ってやれなかった。
ただ断っておくが、此処は病院ではない。
間違っても小児内科でも、託児所でもない。
「会社は休み?」
やっと肯定らしきものが返る。
察するに暇を貰ったのに、誰にも相手にされず仮病を患ったのだ。
席でメールを打ちながら、御坂はつい笑いが止まらなくなっていた。
「…先生なんで笑うの」
不平も顕に芋虫が身を起こす。
「可愛いなあと思って」
「笑わないで」
ぶすっとした顔が赤くなった。
無残に跳ね放題の髪もそのまま、今度はじっと御坂の手元を見詰めていた。
「忙しそう」
「そうでも無いよ」
「…邪魔だったら、帰ります」
急に殊勝に落ち込む。
それできまり悪そうにブランケットを弄りながら、此処に向かうまでの経緯をぼやき出すのだ。
曰く、本当に具合が悪かったのに神崎がバカにした。
腹が立って噛み付いたが、気付けば猫の様に車に放られ、ここに置き去られていた。
だから本意で来た訳じゃない。
そう言いたいらしい。
「ああ、話聞かないからねあの子」
「うん。最近ちっとも」
寝食しかり、人生しかり。
何処かで必要分を省けば、必ず後にツケが回ってくる。
幼少期にコミュニケーションを絶たれていた萱島は、煩わしかろうが今の神崎が教え、相手をしてやらねばならないのに。
「今度叱っとくよ」
尚、不服そうに曖昧な声を漏らした。
今度はいつだ。
そんな程度で改善するのか。
思ったことがすべて手に取る様に知れ、相も変わらず可笑しそうに御坂はソファーへ歩いて来た。
「どうしたの、頭が痛いの」
蕩けそうに優しい声が降ってくる。
素直に反応した萱島は、隣に座る大人へ機嫌を戻した。
「…頭が痛い」
「可哀想に、気圧が低いからかもね」
柔らかく撫でる手が、そよ風の様に気持ち良い。
不安を治す医者の手だ。
いっそカウンセラーよりも、実態を伴った安堵が包んだ。
「先生手をかして」
「いいよ」
不思議そうな相手の右手を引っ張る。
こっちが利き手だろうか、否。
御坂が怒らないのを良い事に、好き勝手に観察する。
最近、無遠慮に通い詰めたお陰か何か。
どうも萱島に対する警備レベルが下がり始めた。
窓の外の馬鹿も消え、こうやって触ろうが誰からもお咎めがない。
「何か分かったの」
「…ただの人間だ」
「あはは」
逐一対応をくれて、お空から優しく笑って。
御坂は萱島が知る限り、誰よりも人格者らしく在った。
然れど神崎はこの大人を警戒している。
気が狂っているとまで言う。
「先生は怒る?」
「悪いことをしたらそうだね」
「ふうん」
またちょっと、良くない癖が這い出ていた。
意味深に目を伏せ、萱島は唇を噛む。
「…何、どうしたら僕が困るか考えてる?」
言い当てられた子供の肩が跳ねる。
視線をあっちこっちに逃がしては、叱られた様に萎れた。
「君には困らないけどね」
萱島は居心地が悪かった。
そうだ神崎や御坂の様な人間を見ると、態と怒らせようとしてしまうのだ。
詰まりは安心したいからだ。人が突然豹変するのを知ってから、この人は違うのだと、増して暴力を振るわれる事なんて無いと確認したくなる。
「誰かが聞いてくれたら、頭なんて痛くならなかったのにね」
「…そんなこと無い」
「そう?」
「先生も社長もいいかげんだ」
ついに御坂にまで噛み付き出した。
抱えた膝に額をくっつける。
「なんとも思ってないくせに、都合のいいことばっかり」
「思ってないって?誰が言ったの」
「どうせ他人ごとなんだ」
この子は家族が欲しいのだろうな。
無条件で繋がる、生涯の安住の地が。
塞ぎこむ小さな背を前に、御坂は脚を組み替え、意図して理論的で小難しい回答を仕舞った。
「それは無いんじゃない?」
「……」
「少なくとも、君にそんな事を言われたら悲しいけどね」
「…本当?」
引っ張られた面が上がる。
「勿論。君が言葉で信じるならそう言おう」
「信じなかったら?」
言の他には動、もしくは有形化する他ない。
御坂はふいと明後日を見やって考え、末に左手に付けていた腕時計を外した。
「?」
「あげるよ」
「えっ」
駄々をこねていた萱島の側がたじろいだ。
「僕のIDが入ってるから、此処だろうが中央情報局だろうが好きに入りな」
「えっ?」
「箱だけで時価2億はするけど売らないように」
2億。
恐ろしいほど精巧な作りの文字盤を睨め付ける。
ちょっと待て。
「いや、これ、どう…」
「少なくとも、どうでも良い他人には渡せないと思わない?」
「思うけど…」
「なら、遥に自慢するといいよ」
固まる萱島を見やり、実に珍しく悪戯めいた色を浮かべた。
さっさと立ち上がる姿が仕事へ戻ってしまう。
何だ。そうか。
台詞の意図を解し、改めて時計を見詰める萱島の顔が華やぐ。
つまり、所謂これは黄門の印籠だ。
「…御坂先生とこんなに仲良しだよって言っていい?」
「そうそう、君を泣かせたらブチ切れるよって言っといて」
萱島は、目に見える形で最強の後ろ盾をゲットした。
先まで情けなかった面が、みるみる色を取り戻す。
「先生ありがとう」
果たして素直な子どもはソファーを飛び降り、御坂の背後から飛び付いた。
書類から振り返った御坂は、嬉しそうな姿を莞爾とした笑みで撫でる。
「ついでに萱島くん、遥に頼んで欲しい事があってね」
「なになに?何でも言うよ」
「じゃあこのリストを渡して、あと今朝に送ったメールもいい加減読んでって念押しといて」
「うん」
「それから…」
あげた際の言葉は本意にしても。
一連の様子を客観的に見れば、御坂が都合のいい使いっ走りを獲得したに過ぎなかった。
上に立つ人間とは、得てして掌握術に長け、悪く言えば人誑しだ。
幸せな萱島は思惑など知る由もなく、大量のおみやげを手に、喜々として神崎の家へと帰っていった。
2017.12.12
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