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clean your cut

痛みを受けると、悲しい思い出が溢れてくる。 隔絶された今日の今にあっても。 つい数分前まで、楽しくやりとりしていた後でも。 急に不安定に落ちて、処理しきれない水流が溢れてパニックになる。 「、いたい」 外は雨だった。 陰鬱な天気が助長したのか。壁の一部がささくれていて、指を切ってしまっただけで。 萱島は突然痛みに立ち竦み、その場で情けなく傷口を睨んだ。 血が滲み、脚元が滲み、洪水で一切の輪郭が捻れた。 雨の日は嫌いだ。 じめじめして、気圧の低さに気分が悪くなって。 埃や畑の土の匂いが充満して、何処へ逃げてもあらゆる隙間から追い掛けて来た。 1滴、2滴。拭っても廊下が濡れた。 苦しいのは何時になれば収まるのか。 「I have been seeing so much rain(いつも泣いてるな)」 耳に心地よい低音。 弾かれた様に顔を上げ、背後を振り向いていた。 暗い階段の底から、確固たる足取りで金髪の上司が現れる。 彼の洗練された気に、陰鬱な天候までもが競り負けていた。 「…隊長」 何処へいようと、どんな天気だろうと。 物ともせず彼で在り続け、周囲を安堵させる。 痛みに戦慄いていた萱島の肩が、幾分弛緩してすとんと落ちた。 「怪我したのか」 傍まで距離を詰めては、不自然に見やる指先を掬い取った。 「あ、平気で…」 「Ar, huh?親知らずでも抜いた様な泣き方だな」 粗方確認するや、早々と手を離す。 それから追従を目で促し、給湯室の方角へ歩き出した。 戸惑いつつも後を追った。 こんな所でめそめそしていたから、叱られるだろうか。 体幹のしっかりした無駄の無い背中を眺める。 ぼんやり、この背中が戦場を切っていたのだなと想像する。 たくさんの傷を負って。 それでも痛くは無いのだろうか。 給湯室に着くや、萱島は掴まれた手に身を竦めた。 洗い場に引っぱられ、やがて冷たい水が手指を濡らし、傷口を流し始める。 「Hi, kitten」 唇を噛んでいたら努めて優しい声が湧いた。 恋人にやる様な呼び方に目を瞬いていたら、彼の袖口で頬を拭われた。 「未だ泣くか」 「…ごめんなさい」 「お前の傷は手当してやるし、彼処は修理を呼んでおく」 寝屋川は抱えていた書類を下ろし、ジャケットから簡易包帯を取り出した。 突撃銃を扱う手が、壊れ物でも触るような処置を施す。 「後は何処が痛いんだ」 じっと砂漠色の双眼が覗き込む。 部下の心の中を見透かし、最良の判断を下す目。 その鋭さに結局泣くのを止められなかった。 みっともなく、絨毯を睨んで鼻を啜った。 萱島の頭が不意に引き寄せられる。 上司の胸に掻き抱かれ、ジャケットに濡れた頬を埋めていた。 「痛いならそれで良い」 身体越しに直接流れ込む。掠れた音が萱島も知らない傷口を撫でた。 「何故人間が痛みを感じるか分かるか。壊れた箇所にも気付かず、おっ死んだら困るからだ」 確かにそうだ。 どんなに苦しくても、痛み自体は死に直結しない。 その原因となる根本を、必死に此方へ訴えているのだ。 「助からない連中は痛みも無かった。お前みたいに泣く事もせず」 温かい。心臓の音が聞こえる。 纏わり付いていた雨の音や温度が消えて、萱島はゆっくりと頭を擡げた。 「自分を分かって、口が利けるならそれで良い」 数えきれない死を見た目。 恐ろしい深淵を見ている筈が、優しい。 この英雄は優しい。 髪を撫で、離れる。 その名残惜しさに耐えかねて、つい相手の首へ抱き着いていた。 「たいちょう…」 「Oh, You're such a baby?」 一転、呆れた声が降ってくる。 でももう知ってしまった。邪険にしないのが彼だ。 若い連中を纏める面倒見の良さから、存外にあれこれ我儘を聞いてくれる。 「そんなに甘えてどうする」 「…だっこして隊長」 「ガキは親元に帰る時間だな」 「子ども扱いしないで」 今度は急に反抗した視線を投げる。 てんで面倒くさい部下を前に、寝屋川は何を思ったか。 俄に瞳を伏せ、sugar、とやけに背筋に響く声で問い掛けた。 「俺がガキ以外を甘やかすのは夜だけだ。お前は俺にベッドで可愛がって欲しいのか」 瞬く間に萱島が首元から染まった。 その身を軽々と剥がし、寝屋川は億劫そうに机上の書類を拾い上げる。 「これを牧に渡しておいてくれ。明日は昼から合同会議だ」 「え、あ、はい」 慌ててバインダーの類を受け取る。 首を回すや、去っていく相手に何か言おうと追い掛けた。 が、数歩で萱島は急停止した。 廊下には当たり前の様にウッドが居て、今日も主君に完璧な敬礼を差し向けているではないか。 「お疲れ様ですサー、ロゼが面談で待機しています」 「そうか」 眠そうに欠伸を漏らす。 去り際に一寸振り返るや、上司はいつもの口端だけ吊り上げた笑みをくれた。 「じゃあなsugar、もう彼方此方触るなよ」 速度のはやい彼のこと、見る間に豆粒大になってゆく。 半ば放心している萱島を不思議そうに見やり、ウッドは手元の包帯へ気が付いた。 「チーフ、お怪我ですか?」 「…もう治してもらった」 覇気がない様子を汲み取り、原因に合点が行った。 ウッドは階段に消えた上司を見やり、萱島を見やり、口を開く。 「主任、サーのあの言葉選びでしたら気になさらないで下さい」 要は“sugar”だの、“kitten”だの、恋人を口説くようなアレのことらしい。 「癖の様なものでして。意味もなく良く使うんです」 「うへえ…」 それは、どんな癖だ。 うっかり惚けてしまった時間を返して欲しい。 「またお世話になってしまった」 「左様ですか?気にしてないと思いますよ」 「でも何かお礼したくて、隊長ってス◯ッカーズ好き?」 「サーは甘い物はちょっと…」 話しの中途で気が付いた。普通に話せていた。 先まで息も辛かった胸を押さえ、ついでに目についた指先を眺める。 「痛みが?」 心配を零すウッドに、萱島は頭を振った。 ちっとも痛くは無かった。 胸の内に、さっきの苦痛を乗り越えた経験を残して。 彼から盗み聞いた鼓動と、体内へ直に流し込まれた言葉。 それらが生んだ。 萱島の中に芽生えた。 雨の日でも消えない強かな炎が、じんわりと中枢を温かく焦がしていた。 2017.12.17

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