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Crossroad

「社長」 ガヤガヤ。珍しくテレビの音がする。 時間帯からしてニュースの中継、覗き見たリビングの横顔が照らされる。 「…しゃちょー、牛乳無くなった」 決して会話を遮断する喧しさでもない。 寧ろ注意せねば聞こえない程度の側に、神崎の意識はすべて持って行かれていた。 「紅茶飲むから、コンビニ買いに行っていい?」 まったく返事が貰えない。 空のパックを手に、萱島はリビングの手前で途方に暮れていた。 「…コンビニ」 本人曰く。決して無視をしていた訳ではなかった。 萱島の声は例えば鳥の囀りに等しく、他に用があるとき、つい思考の下へ流してしまうのだ。 最後は消えそうな声で、怖ず怖ずと名前を呼ぶ。 暫く困惑した顔でその場に居たが、尚も見もしない相手に憔悴して踵を返した。 夜の冷たい廊下を裸足が踏む。 後ろからは、心なしかボリュームを増した歓声が飛ぶ。 萱島はひとり、財布を取りに自室へ向かった。 そうして薄い上着を羽織り、玄関の扉をゆっくりと開き。 風の冷たさに身震いしつつ、努めて音を出さずにドアを閉めた。 「…ん?」 まあ、疲れてぼんやりしていた所為もあるのだろう。 神崎が異変に気付いたのは、それから秒針が何周もして後。 賑やかな中継が終わり、幕間のCMに移行してやっとだった。 「アイツ何処行った?」 確かついさっきまでキッチンをちょろちょろしていた。 小さい生き物が、忽然とその場から消えている。 そう言えば、思い返せば何か呼んでいたようなそうでないような。 保護者はソファーから立ち上がり、自室へ戻ったのかと廊下を歩き始めた。 「沙南ちゃん、晩ごはんは?」 餌もやっていないのを思い出し、だだっ広い宅内へ呼びかける。 が、何処からも反応が無い。 おまけに部屋は真っ暗で、闇を怖がるアレが居る筈も無かった。 「…まさか」 珍しくバタバタと玄関へ走る。 靴箱を開けて覗こうが、いつものスニーカーが見当たらない。 どうもこんな時間に出て行ったらしい。 別に近所のコンビニに歩くくらいだろうが、相手はなんせ5歳のお子様だった。 面倒くさい。寒い。過保護。 暫し適当な大人は腕を束ねていたものの、看過するほど無責任にもなれない。 大体反応が貰えないなら、いつもみたいに鬱陶しく食い下がれば良い物を。 何故か今日のように、突然聞き分けよく黙る。 黙って大概、妙に深いケガを隠したりするのだ。 (最低はマイナス2度) 雪が降るかもしれませんね、とキャスターの穏やかな声が蘇った。 億劫だが、仕方なかった。 どうせまたあの足しにもならない上着を来て、寒い首を晒して出て行ったに違いないのだから。 (牛乳) 飲料コーナーを目で追う。 紙パックの列を調べていたら、端に一つだけ白い容器があった。 (500ml、1L) 悩んだ結果、半分の方を手にとった。 臨時に入用なだけで、明日はスーパーにいつもの銘柄を買いに行きたい。 目当ての物を入れてしまい、萱島は未だ軽いカゴを眺める。 深夜のコンビニは不思議な場所だ。 閑散としていながら、何故か寂しくはない。 寧ろ蛍光灯と暖房でぼうっとして、何も考えなくて済むのだった。 「…そっか」 チョコレートから手を引っ込めようとして止まる。 今日は誰も居ないから、欲しいものは何でもカゴに入れたら良い。 咎める人も居ない。 大人なんだから、社会人なんだから。 自分で稼いだお金を使って、自己責任で買えばいいのだ。 ケースに並んだ四角い量産品。 眺めて一つを手にとって、結局元に戻していた。 何だかどれが欲しいか分からない。あんまり、食べたくないのかもしれない。 (牛乳だけ買って帰ればいいや) ただ家に戻って紅茶を飲んたら、他にやることも無くなってしまう。 寂しさに負けて、目についた箱を中へ放った。 「――…いらっしゃいませ」 レジの店員が作業から顔を上げる。 カゴを置いて、財布を出そうと上着を探った。 ピ、ピ、と無機質なBGM。 ファスナーを開けて小銭を見ながら考えた。 やっぱり真っ直ぐは帰らずに、公園でお菓子を食べて時間を潰そう。 甘える事に慣れすぎてしまった。 最初から一人だったなら、もう一度一人にならなくて済んだのに。 「428円です」 500円玉を置こうとして、隣から伸びた手に遮られた。 「これで」 見慣れたカードを差し出す手に、萱島の大きな目が縫い止まる。 驚いて声も出ず、隣で勝手に会計を代わる姿を見上げた。 「あ、あとキャスターの5ミリ」 どうして此処に居るのだろう。 未だ夢見心地で、コートを纏った神崎を疑う。 店員は店員で、派手な見目の2人に釘付けになっていた。 「沙南ちゃん」 商品の入った袋をくれた。 萱島は黙ったまま、会計が終わるのを待つだけだ。 「もう少し暖かい上着買いな」 言ってレジを離れると、神崎はさっさと自動ドアを潜る。 慌てて後を追い、袋を揺らして寒い店外へ走った。 相手は軒下で煙草に火を点けていた。 訳は分からぬままその場に留まり、じっと突然現れた彼を推し量る。 「…煙草買いに来たの?」 甘いキャスターの匂いの向こう。 純粋に目を瞬く子どもに、神崎は掴んでいたマフラーを巻き付けた。 「そうだよ、お前は」 「牛乳…と散歩」 直ぐに帰る気は無いのだと、暗に仄めかせる。 対して首を傾げた大人は、率直な疑問を呈した。 「このクソ寒いのにか」 「うるさくしたから、静かにしようと思って」 ちょっと閉口する。 不安定さが、本当に難しい。 明後日に煙を吐いた。神崎の色素の薄い目が、夜に突っ立つ姿を宥めた。 「社長がそういう風に叱ったことあるか?今まで」 「…ないよ」 「そうだな。序に、俺がいっこ出来ない事も知ってるよな」 特に吸う気も無かった。 長いままの煙草を携帯灰皿に押しこめ、神崎は不思議そうな相手のジャンパーを上まで留める。 「お前の気持ちとか感情とか、社長ははっきり理解出来ないから。知識で組み立てようが、予期せず傷つける事があるだろうよ」 確かに知っていたけれど、言葉にして告げられたのは予想外だ。 完璧に近い男が、出来ないという否定を吐くのも。 「だから気に障ったら言いな。まあ次には多分、覚えといてやるから」 いい加減だ。でも、慮って考えられた言葉だ。 僅かに頷き、萱島は目元を拭い始める。 一人で生きていたって、ぶつかりはしない。 誰かと生きて初めて、自分の姿也を悟って、明日を模索しだすのだ。 「おい外で泣くなよ、俺が職質されるだろ」 「社長、寒い」 「当たり前だろ。何月だと思ってんだ」 手を繋いで歩き出した。 店員の彼が何か、身を乗り出して見ていた気がするが。まあいい。 「いつまで泣いてんの、涙腺切断したげようか」 「…なにそれ」 「御坂の真似」 「先生そんなんじゃないよ」 「いや、そんなんだろ」 行き道は記憶にすらないのに。 二人で歩く帰り道は、数十年後も忘れそうにない。 嬉しいこと、悲しいこと。両方あっての今だから。 昔よりも波乱万丈で、真っ直ぐになんて生きていけやしない。 それでいい。それがいい。 「何だよ」 陰鬱な世界から連れ出して、新しい人生をくれた。 生みの親より尊い、稀有な灰色の瞳。 今日は恥ずかしくて口にできない、一方ならない感謝があった。 繋いだ手を握り締め、萱島は無言で冷えた頬をくっつけた。 (2018.1.21)

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