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同じ世界を生きること
※また沙南ちゃんが落ちちゃったはなし
※薄暗いよ
1920年10月17日、キリスト教伝道師のシングはシロアリ塚でオオカミと暮らしている少女らを保護した。
かの有名な孤児、アマラとカマラとの邂逅である。
シングは23枚に渡る写真と詳らかな記録を残したが、真実性に欠けるとして、複数の学者は単なる捏造だと片付けた。
生から数年を狼に育てられた少女。
シングの話を鵜呑みにするならば、彼女らは結局最後まで人間界に適応出来ず、一匹の獣として死を迎えた事になる。
結局は幼少期の数年が、ピリオドまでの人生を決める。
幾らその後献身的に愛してやったとして、その筋書きを曲げるのは不可能なのか。
「ご面会ですね、此方が証明書になります」
もう十数回目の手続きになる。
受付を済ませ、戸和は別館へ渡り廊下を進む。
萱島が、またも入院する羽目になった。
調査対象が人身売買に加担していて、偶々調べていた倉庫で大量の奴隷の死体を発見してしまった。
しかもそれが、殆ど子どもなのがいけなかった。
目の当たりにした瞬間に、理屈じゃない。
強制的に押し込めた記憶が迫り上がり、その場で一気に崩れ落ちてしまった。
(研究者によれば、アマラとカマラは精神障害の孤児だったとも)
黙って歩く戸和の背面。
先まで読んでいた文献が追い掛ける。
何をしたって断ち切れないのは知っている。その上で、相手の人生を背負っていくと決めたものの。
病室に辿り着き、つい軽く深呼吸していた。
ノックをして扉を開けば、真新しいベッドの中心に、ちょこんと小さな身体が丸まっていた。
「――沙南」
名前を呼んだ。
ひょいと面が上がる。
点滴に繋がれた腕は、順調にやせ細っている。
「いい子にしてたか」
反してきらきらした瞳の下、言葉を失くした口が綻んで笑んだ。
戸和が近くに来てやれば、ベッドから音もなく降りる。
そうして憚りなく身を寄せ、満面の笑みで抱き着く。
辛い記憶を忘れ去った今、真に5歳ほどの萱島は嬉しげにごろごろと喉を鳴らした。
「お前の気に入ってたお菓子買ってきたから、好きな時に食べな」
抱えていた紙袋は脇に置いた。
つい数週間前ならば、迷わず飛び付いていた商品ロゴ。
今は不思議そうに観察して、はじめて相対する物をじっと色んな角度から調べている。
戸和は黙って中身を出して、包装紙を外す。
そうして萱島を再びベッドに座らせるや、一番甘そうなフレーバーを手ずから渡してやった。
「ほら」
まん丸の目は、その正体を知らない。
それどころか、今こうして訪問している戸和の素性すらも。
毎日会いに来てくれる青年というだけで、有象無象のひとつに過ぎない。
(こんなに容易くリセットされる)
データは消失した訳ではない。
物置の奥に仕舞いこんだだけで、未だ無理矢理引きずり出す事は可能である。
お菓子をくるくる回して眺めている姿を撫でる。
無理矢理引きずり出す事は。
(今度こそ容れ物に罅が入りそうだ)
目の前で、幾ら身体は衰えていようが。
無邪気で楽しそうな子どもは、きっと幸せに違いないのだ。
些少なきっかけが引っ掛かる度、
真ん中の棘に気がつく度、
何度も底なしの沼に落とされる懸念もなく。
こうして、幸せに笑んで。
生きて。
「……?」
不穏な顔で見詰めていたら、意図の分からぬ萱島がきょとんとしていた。
頬を掬い、すぐ傍らの輝く瞳を覗いた。
ただの他人、それ以上は持たない色。
例え数年だろうと、並べきれない思い出を抱えた時間を、全部彼方に捨て去ってしまった白。
「…また初めからか、沙南」
傷を携えたお前の存在ごと、残らず包んで愛してやるつもりだったのに。
聞けば5歳に戻ろうが、萱島に幸せな時間なんて無かった。
記憶を持った頃にはあの闇に居て、毎日発狂しそうな死の恐怖に押し込まれていた。
つまり今の姿は退行じゃない。
新しい世界を生きたくて、真の願望から創り出したもう一つの人生なのだ。
「なあ」
愛するって何だ。
自分の幸せとそちらと、合致しない場合にお前を優先することなのか。
「俺が居なくてもいいのか」
君の世界に。
辛くても自分が居る方が良いと、前に話したんじゃなかったのか。
薄暗い面を怒りだと解釈したのか、
萱島は怯えた表情で、相手のシャツを引っ張っては目で許しを乞う。
その身体を抱き締めもせず、戸和はそっと小さな手を剥がさせた。
喋れない萱島はお菓子だけを手に、呆然とベッドへ座っている。
一人立ち上がった。
背を向けて、其処で思い知った。
このまま相手の前から姿を消そうが、今の世界線では何の問題も無かった。
ただお互いが忘れて、二度と出会う事もないだけ。
“いずみ”
幻想の中で、舌っ足らずな口調が呼び掛ける。
その声だけを何度も思い出す。
行かないで、と一言でも言ってくれたなら。
きっと他に何を置いても、その場に居た。
ドアを開けて冷たい廊下に出た青年は恨んだ。
過去に傷を付けた犯罪者。
裏切られたと被害面の己。
何も言わない萱島、
と相手に伸びた所で漸く切った。
これ以上最低になるならば、もう此処に来る意義も無かった。
(2018.1.28)
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