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第106話

 現金なもので、長い間の不安感は、桂の声を聞いて以来俺の中からは消えてしまっていた。 もうすぐアイツに会えるという楽しみの方が勝って、いい年をした俺はまるで初恋の人に出会うみたいな高揚感をも味わっていた。 店の商品を並べる手つきも、自然に跳ねるように軽やかになる。 「こんにちは。」 「・・・あ、いらっしゃい。」 にやける顔を向けたのは、前に一度来た事のある男子学生。 フワフワの髪が桂に似ていて、なんとなく脳裏に焼き付いていた。それに、顔も可愛い。 「今日は、休み?」 カレに聞くと、「はい。」と言って頷く。 「あの、この前Tシャツを買ったんですが、色違いって、まだありますか?」 「え?・・・・ああ、たぶん。」 カレの買ったものはなんとなく覚えていて、俺は棚の隅に目をやると、「これ?!」と聞いた。 「・・・はい。すごいな、よく覚えてますね。」 カレは少し肩をあげながら感心したようだった。その仕草や、大きく見開かれた瞳も可愛い。俺は、ニッコリ微笑むと「すごくなんかないですよ。たまたま、です。」と言ったが、なんとなく褒められたようで悪い気はしない。 「あのTシャツ、結構友達にも評判良くて、欲しいって言われてたんだけど。ここには同じものは無かったし・・・。で、色違いでもいいっていうから買いに来たんです。」 「そうなんだ?!アレはね、カリフォルニアで仕入れてきた物なんだ。だから枚数も限られてる。嬉しいな、俺の趣味で入れている物を気にいってくれてさ。」 つい、普段の言葉になってしまい、「あ、」と思ったが、カレは気に留めずに微笑んでいた。 「いいなぁ、ここに置いてあるものはあなたの趣味のものばっかりなんですね。」 言いながら、棚のものを色々と見ている。 商品に触れる細い指。じっとうつ向いて覗きこむ時の伏せた瞼で揺れる睫毛。年頃なのに、ニキビの痕もないスベスベの頬。 久しぶりに、同性の顔をじっと見入ってしまった気がする。ここの客層は男性がほとんどだったから、見慣れているはずなのに・・・。 俺の中にある、もうすぐ桂に会えるという想いが、同じような髪をしたこの少年を近くに感じさせるのか。不思議だが、しばらく目が離せないでいた。 「今度、新しいものが入る時っていつですか?」と聞かれ、俺はもうすぐ秋、冬用の商品を買い付けに行く予定だと伝える。 それを聞いて、カレは嬉しそうに笑った。またその頃、店に来てくれるという。 そんな些細な会話さえ、今の俺には嬉しくて、こんな若い学生にも共感してもらえるって事を桂に報告したくてたまらなかった。 「そうだ、そしたら顧客カードに記入してもらえるかな。そしたらDM送るし、一応商品の写真なんかも載せておくから、良かったらまた見に来てよ。」 カウンターからカードを出すと、カレの前に置く。 少し戸惑っているのか、すぐに記入する様子がなくて。 「あ、ゴメン。学生だし、親に何か言われるかな?!」 少年の前に置いたカードをしまおうとするが、俺の手を遮ると、「書きます」と言ってペンを取った。 なんとなく、そこには目をやらずに、俺はTシャツを畳みながら袋へ入れる。 記入が終わり代金を支払ったカレは、少しだけ恥ずかしそうに会釈をすると店を出て行った。 その後ろ姿を見送りながら、俺はほんの少しの違和感を覚える。 が、後から入って来た客に気を取られると、そのカードをカウンターの引き出しに仕舞った。 同じような毎日の中で、同じような動線を描いて生きているはずなのに、不意に立ち止まって辺りを見回すと、なんだか道が逸れているような気がする。もう一度振り返って、そこが自分の居場所だと確認できると、また安心して前に進める。 俺が歩んできた道は、そんな事の繰り返しで。 それでも、俺の傍には桂や天野さんやたくさんの友人たちがいてくれて、俺が道を逸れても目を瞑って見ていてくれた気がする。 桂と共に歩んでいく覚悟で、これからの長い道のりも地に足を付けて歩いていこうと決めていた俺。 それなのに、そんな俺の覚悟を試すような事件が起こったのは、日本を飛び立つと決めた3日前の事だった。

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