2 / 111
episode.1-1 「萱島代理がやって来た!」
――寛容とは何か。それは人間愛の所有である。
以上。かのフランス哲学者ヴォルテールが遺した言葉だが、哲学なんて目先の希望にもならない。
増してこの現状の打開など。
言い難い鬱憤を乗せ萱島は煙を吐く。眼前では良い年の大人が、未曾有の恐怖に巻かれてびーびー泣いている。
「勘弁してくれえ…!お前らそれでも人間かよ!娘が生まれたばっかなんだ見逃してくれよォ!」
「だからその為にチャラにしてやるって言ってんだろうが」
「死んだんじゃ元も子もねえよ!」
そうだ。死んで金に口なし。しかし。
“Death is a friend of ours; and he that is not ready to entertain him is not at home.”
美味そうな名前の哲学者によれば、オトモダチらしい。
いやいや、そうでない。
「…俺が哲学を嫌いな理由として、生産性も無いのに時間ばかり浪費する」
「何です藪から棒に」
「今だよ、今。考え込んで1つでも吉報があったかよ」
「照明を忘れたのは俺の責任じゃないですよ」
寒い腕を擦る若い者が言った。誰も彼も我が身可愛さに庇う。
揶揄で肩を竦め、安い煙草を弾き飛ばした。
さて現在このメインホール、貸し切りでスナッフフィルムの撮影をしていた。
キャストは2人。殺す奴と死ぬ奴である。
ところがどっこい、使えない下の人間が照明を忘れたときて、メガホンを持つ萱島は煙と不満ばかり巻き上げていた。
この収益を柱に生きている故、到頭語気も荒く部下の胸倉を掴み上げる。
「――良いか、俺のスナッフフィルムの売りが何か分かるか。生々しさだよ。昨今じゃやれ企画物だのチャットだの、視聴者に媚び諂っちゃいるが…真に金を払う旦那様は紛い物なんざ買わねえさ」
「ああ…ええ、承知してますが」
「この無駄な時間のお陰ですっかり臨場感が薄れたぞ。見ろ主演男優を。疲れ切っちまった」
「…そりゃトゴのキリトリ(取り立て)で追われた上に、殺されるんじゃあんな面になりますよ」
「200万の損失だ馬鹿野郎」
矢継ぎ早に言い募り、脳内で赤字の回収に努めた。
完全出来高制の人生だ。フランチャイズのヤクザが聞いて呆れる。
上納金は結局上納金に消える。この業界で旨いのはほんの針の先だけだった。
「あーあそうでなくても初主演だったんだ、可哀想に」
「スナッフなんざ初物しか居ないでしょ。人間2回は死なねえんすから」
不意を突かれた様な萱島が、今度は隣の男をまじまじと正視した。
「そういやそうだな」
「何を今更…」
「おい萱島!」
そして濁声が飛んだ。片手で応答する。
煩わしくもさっさと絨毯を跨ぎ、呼び付けた男へ目礼した。
「…お疲れ様です大城先生」
「相変わらず道頓堀の底みたいな目ん玉やな。まあええわ」
何も良くはない。
然れど毎度不躾なこの男は萱島の頭上の長を跨ぎ、そのまた上の階層の偉い人間なので文句は仕舞い込む。
「今日から暫くお前は解雇じゃ」
「ウチが雇用制なんて初耳です」
「知り合いのつてがあったけ、人手捜したはる隙間にお前を滑り込ませたわい」
ひょいと片眉が上がった。
話を解析するに、他所への出張らしかった。
「調査会社のRICてなんぼお前でも知っとんな」
「零区の銀行が何の用です」
「用向きは今から直接渡って聞いて来んかい。くれぐれも粗相無い様にせえよ」
ドギツい眼光が釘を刺す。
そっちの方がよっぽど濁っているじゃないか。呆れたものの、罵詈雑言を飲み込んで後ずさった。
何時の間にか、取り巻きの孝心会の連中が場所を取っていた。
流石首位の広域暴力団。体積だけは立派だ。
しかし件のRIC、70キロで飛ばして1時間は要した。
今日で抱えた負債や先の回収見込み剥奪。
諸々の負け分を取り戻すため、萱島は目に留まった標的へにこやかに歩み寄った。
「――…よお、久し振りじゃねえか!席にも顔出さねえで心配してたんだぜ」
「あ?ああ…まあ、役職付いて忙しくてよ」
何だあコイツは。
妙に馴れ馴れしい、そもそも別の看板を抱え、まるで良い噂を聞かない男へ鼻白む。
「景気が悪けりゃ酒も飲めねえな、今度こっちで持つからよ」
「そうかいそれじゃあ…」
「まあお互い元気出して行こうぜ」
景気付けに相手の尻を叩くと、萱島はやけに溌剌とした笑顔で消え去った。“溝から生まれた”と称される金融ヤクザにしては、余りに爽快だ。
「…駄々こねるか思たら、えっらいご機嫌やのお。赤のが仰山出んのに」
おまけに面を上げたら、隣には孝心会の直参(直系組長)が並んでいる。
上から数えた方が早い男が、こんな場末に言伝だけでのこのこと。
改めて萱島というヤクザは定規すら益体な、任侠の型に嵌らぬ異端児である。
ともだちにシェアしよう!