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episode.1-1 「萱島代理がやって来た!」

――寛容とは何か。それは人間愛の所有である。 以上。かのフランス哲学者ヴォルテールが遺した言葉だが、哲学なんて目先の希望にもならない。 増してこの現状の打開など。 言い難い鬱憤を乗せ萱島は煙を吐く。眼前では良い年の大人が、未曾有の恐怖に巻かれてびーびー泣いている。 「勘弁してくれえ…!お前らそれでも人間かよ!娘が生まれたばっかなんだ見逃してくれよォ!」 「だからその為にチャラにしてやるって言ってんだろうが」 「死んだんじゃ元も子もねえよ!」 そうだ。死んで金に口なし。しかし。 “Death is a friend of ours; and he that is not ready to entertain him is not at home.” 美味そうな名前の哲学者によれば、オトモダチらしい。 いやいや、そうでない。 「…俺が哲学を嫌いな理由として、生産性も無いのに時間ばかり浪費する」 「何です藪から棒に」 「今だよ、今。考え込んで1つでも吉報があったかよ」 「照明を忘れたのは俺の責任じゃないですよ」 寒い腕を擦る若い者が言った。誰も彼も我が身可愛さに庇う。 揶揄で肩を竦め、安い煙草を弾き飛ばした。 さて現在このメインホール、貸し切りでスナッフフィルムの撮影をしていた。 キャストは2人。殺す奴と死ぬ奴である。 ところがどっこい、使えない下の人間が照明を忘れたときて、メガホンを持つ萱島は煙と不満ばかり巻き上げていた。 この収益を柱に生きている故、到頭語気も荒く部下の胸倉を掴み上げる。 「――良いか、俺のスナッフフィルムの売りが何か分かるか。生々しさだよ。昨今じゃやれ企画物だのチャットだの、視聴者に媚び諂っちゃいるが…真に金を払う旦那様は紛い物なんざ買わねえさ」 「ああ…ええ、承知してますが」 「この無駄な時間のお陰ですっかり臨場感が薄れたぞ。見ろ主演男優を。疲れ切っちまった」 「…そりゃトゴのキリトリ(取り立て)で追われた上に、殺されるんじゃあんな面になりますよ」 「200万の損失だ馬鹿野郎」 矢継ぎ早に言い募り、脳内で赤字の回収に努めた。 完全出来高制の人生だ。フランチャイズのヤクザが聞いて呆れる。 上納金は結局上納金に消える。この業界で旨いのはほんの針の先だけだった。 「あーあそうでなくても初主演だったんだ、可哀想に」 「スナッフなんざ初物しか居ないでしょ。人間2回は死なねえんすから」 不意を突かれた様な萱島が、今度は隣の男をまじまじと正視した。 「そういやそうだな」 「何を今更…」 「おい萱島!」 そして濁声が飛んだ。片手で応答する。 煩わしくもさっさと絨毯を跨ぎ、呼び付けた男へ目礼した。 「…お疲れ様です大城先生」 「相変わらず道頓堀の底みたいな目ん玉やな。まあええわ」 何も良くはない。 然れど毎度不躾なこの男は萱島の頭上の長を跨ぎ、そのまた上の階層の偉い人間なので文句は仕舞い込む。 「今日から暫くお前は解雇じゃ」 「ウチが雇用制なんて初耳です」 「知り合いのつてがあったけ、人手捜したはる隙間にお前を滑り込ませたわい」 ひょいと片眉が上がった。 話を解析するに、他所への出張らしかった。 「調査会社のRICてなんぼお前でも知っとんな」 「零区の銀行が何の用です」 「用向きは今から直接渡って聞いて来んかい。くれぐれも粗相無い様にせえよ」 ドギツい眼光が釘を刺す。 そっちの方がよっぽど濁っているじゃないか。呆れたものの、罵詈雑言を飲み込んで後ずさった。 何時の間にか、取り巻きの孝心会の連中が場所を取っていた。 流石首位の広域暴力団。体積だけは立派だ。 しかし件のRIC、70キロで飛ばして1時間は要した。 今日で抱えた負債や先の回収見込み剥奪。 諸々の負け分を取り戻すため、萱島は目に留まった標的へにこやかに歩み寄った。 「――…よお、久し振りじゃねえか!席にも顔出さねえで心配してたんだぜ」 「あ?ああ…まあ、役職付いて忙しくてよ」 何だあコイツは。 妙に馴れ馴れしい、そもそも別の看板を抱え、まるで良い噂を聞かない男へ鼻白む。 「景気が悪けりゃ酒も飲めねえな、今度こっちで持つからよ」 「そうかいそれじゃあ…」 「まあお互い元気出して行こうぜ」 景気付けに相手の尻を叩くと、萱島はやけに溌剌とした笑顔で消え去った。“溝から生まれた”と称される金融ヤクザにしては、余りに爽快だ。 「…駄々こねるか思たら、えっらいご機嫌やのお。赤のが仰山出んのに」 おまけに面を上げたら、隣には孝心会の直参(直系組長)が並んでいる。 上から数えた方が早い男が、こんな場末に言伝だけでのこのこと。 改めて萱島というヤクザは定規すら益体な、任侠の型に嵌らぬ異端児である。

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