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episode.6-1 「お腹を壊したスカベンジャー」
何日も纏わり付く、しつこい雨だった。
きめの粗い空気が立ち込める中、帝命製薬の主、御坂康祐はP2を歩いていた。
壁のない渡り廊下、肩へ霧が掛かる。
白衣をさらう風は冷たい。
冬の兆しが迫っていたから、それに気を取られ反応が遅れたのかもしれない。
「ねえねえお医者さん」
変声期前の少年が呼び掛けた。
ふと突然、魔法の様に脚が止まっていた。
「先生は内科の人?それとも手術する人?」
手術、で詰まるのが愛らしい。
振り返った御坂は少年を前に、何も言い難い目でじっとしていた。
「うーん…道を聞きたいの。遥がね、迷ったから…あれっ?」
きょろきょろ辺りを伺うや、眉尻がしゅんと下がる。はっきり手に取れるほど、率直でちゃんと育てられた少年。
ほんの少し透けた双眼が、長い睫毛を乗せて何度も瞬いた。
「…はぐれちゃった」
どうも大人と一緒だったらしい。
御坂はこんな場所に居る子供を不審がったのか、尚も言葉を返さない。
此処は確かに病院だ。
しかし汚い策略が渦を巻いた、ただの欲望の権化だ。
そんな場所で。
「何で、自分が聞いてこいって言ったくせに」
口を尖らせる様は、呆れるほど幼い。
ただ直ぐに伸びてしまうのか、パーカーの袖は寸足らずに放ったらかされたままだ。
「どうしよう…電話持ってない。さっきまで居たんだけど」
最早独り言だった。医者の方はだんまりで、一言も発しないから。
「今何時?」
自分へ問いつつ、渉は徐ろに凹んだ鞄を漁り始める。
やがて安っぽい時計を探り当てた。
時刻を確かめ、一息ついたのち、彼は小さな手にそれを巻きつけようと奮闘した。
しかし金具がずれているのか。待てども、ちっとも上手く留まらなかった。
「…うう」
必死な少年に、傍観していた大人は漸くアクションを起こした。
焦る彼の前へ差し出す。白い手に大きな目を上げ、渉はまじまじと見詰めた。
時計を。
暫くして意を介したのか、掌へ時計を預ける。
ねえそれ、大事なやつなんだ。
渉が言葉を繋ぐ手前、器用な指先は錬金術の如く金具を直してしまった。
「すげえ…何で?どうやって直したの」
自然に語調が崩れていた。繰り返し礼を叫ぶ少年へ、初めて御坂の表情が温かみを帯びる。
零区の大人は子供が嫌いだ。
だから、渉は正直無視なんて慣れっこだった。
小児科でないなら医者なんて尚更。
それで流していたのに、突然彼は膝を折るや、少年の目線へと身を屈めたのだった。
「…もう行きな」
潜めた柔らかい声が降る。
ぼんやり眼鏡越しの目を見据えたまま、渉は頭を撫でる手を甘んじて受けた。
「君の迎えが来たよ」
意味を解して、はっと渉が背後を振り返った。
「…あ、遥!」
スーツを着た兄は、何食わぬ顔で其処に立っていた。
踵を返して駆け寄り、少年は勢いのまま相手の鞄を殴りつけた。
「何処行ってたんだよ、急に居なくなって!」
「ああそう?道分かったから早く帰るぞ」
「何だよもうふざけんな」
むくれた姿が容易く剥がされる。
今日だってやっと来れたのに、早々と帰り支度をするのだから。
「あ…そうだ」
立ち去る前に視線を戻し、再び白衣の医者へ話しかけようとした。
ところが廊下は蛻の殻で、彼は影も形も無く消え去っていた。
「へ?」
「どうした、早く行くぞ」
「今ねー…先生が居たんだよ。俺の時計直してくれた」
不服そうな顔を眺める。手を繋がれた神崎は、いつも通り簡素に流すかと思いきや。
「そうか。大事にしろよその時計」
平淡ながら珍しい返事を寄越す。少し不思議そうにしていたが、歩き出した相手に引き摺られ、渉はにこにこと楽しげに地面を跳ねた。
「お医者さんってやっぱ器用なんだね」
「外科医はそうかもな」
「俺が居たとこの先生はねえ、おじいちゃんだった。手もぶるぶるしてたよ」
渉がP2で過ごしていたのは一昨年、例の襲撃事件後だ。
世話になったのは精神科で、半年近く医者の管理下で過ごしていた。
今日は神崎に我儘を言い、その古巣に遊びに来ていた。
前々からダメだダメだと窘められていたのを、遂に駄々をこねて押し通したのだ。
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