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episode.7-3
P2は第1~第3診療部並びに、技術部や救急センター等から成る総合病院である。
この春、統括診療部長の座を手にした水原邦夫は、もうめっきりメスを握ることも稀になっていた。
美人の秘書までつき、至れり尽くせりだ。
やがては副院長、院長と上り詰め、プロジェクトの中枢へと携われば。
水原は夢想した。神と崇めた、あの男の側で奇跡に遭遇出来るやもしれない。
「水原統括部長、お電話です」
ぷっつりと思考を割く声に、水原は億劫に腰を上げた。
点滅する内線を取り、年齢からしゃがれた声で応答した。
『お久し振りです、水原先生』
反して若い声が返る。直接繋がれたから関係者かと思えば、彼は妙に楽しげに予想を裏切った。
『先生に以前手術して頂いた者です、是非とも直接お礼申し上げたくて…』
取るに足らない用件、繋げて寄越した秘書をつい睨め付けていた。
「左様で御座いましたか…せっかくなのですが済みません、今業務が立て込んでおりまして」
『俺を覚えておいでですか先生、昨年お世話になった萱島と申しますが』
その名前を耳にし、脳内で反芻し、理解した水原からどっと汗が吹き出した。
一体今になって、自分に何の用があるというのか。
後ろめたさに青褪めつつ、思い直した水原はどうにか首を振った。
否、疚しいことなんてある筈ない。
彼の命を助け、医者としての使命を果たしたのは確かなのだから。
「も、勿論ですとも…いやあ良かった、お元気な様で…」
『先生、ちょーっと俺の身体、あの日から引っ掛かる件が多くてね』
そう言えば施術した男、暴力団の組員だったのだ。ビリビリやけに耳に響く、意図的に低めた声に医者の足が竦んだ。
『おたく、何か妙ーなもんを入れやがりましたね。例えばこっちに撒いてるシャブに混ぜたような、親父の逆鱗に触れそうなもんを…』
分厚い唇が今度ははっきり戦慄いた。
もう麻薬の件まで割れてしまっていた、このプロジェクト、現状で暴力団に露呈すると言うのか。
最悪だ。
反対の手で額を押さえ込んでいた。頓挫どころか、この街の存続自体が危うかった。
止めどない汗を垂らす、水原は努めて落ち着いた声を捻り出そうとした。
「…ちょ、直接話そう」
この盤の端で詰まされた気分だった。
ゲストルームへ。淡白に告げた相手が、それきりで回線を遮断する。
胃の辺りを擦り、水原は自分の執務室を呆然と抜け出した。心あらずで階段を下り、行き着いたロビーでは確かに件の患者が笑んでいた。
「――やあ先生、また遭えましたね」
ぎょろぎょろと眼球が拠り所なく彷徨う。
気付けば身体を押し込まれ、ゲストルームという密室に閉じ込められていた。
「な、何の事かな…私には全く」
「先生…何時もならもう少し悠長なんだが、生憎状況が差し迫ってるんだ」
丁寧な発音の隣、もう1人は男の眉間へ真っ直ぐモノを構える。深淵の奥、鉛弾が息を潜めていた。
あっ、と水原は短い悲鳴を漏らした。
それで微かに喘鳴しながら、真っ青に2人の客を見据えていた。
「答えてくれ、俺達の体内に何を仕込んだのか」
コイツは撃つぞ。生物の本能的な危機意識が教え、喉から体内がからからに干上がる。
「そして貴方や御坂所長が、この零区で一体何を企んでいるのか」
水原はまんじりともせず見ていた。
壁際に追い込まれ、今は何の盾も持たず無防備に立って。
ところが、何が起爆剤になったのか。
本郷がことを言い終えた瞬間、彼の唇はみるみる両端から吊り上がっていた。
明確な喜色だ。到底余裕とは無縁だが、相対する2人を訝しげな面にするには十分だった。
「御坂…そう御坂所長。私はその名を聞く度、悦ばずには居られんのだよ」
起爆剤は所長の名らしい。
増々分からぬ目で、萱島の指がトリガーから逸れた。
「君は光栄に思うかな。確かに君達の体内には難解なウイルスが根付いてる、が、ああ…一体誰が生み出したのか、それを、生み出したのは他でもなく彼、御坂康祐であるからして…」
繰り返し自らに落とし込むかの如く、胸を押さえては震える。
寒気を覚えた。この男。御坂という人間に底から陶酔し、その現状にすら浸っていた。
「感動しこそすれ、怒るものではない…どう見ても副作用もなく五体満足の癖に」
「怒っちゃいない、真相が知りたいだけだ。貴方には説明責任があるでしょう」
「そうだ我々は研究している。新時代を司るウイルスを」
かっと完全に居直った男の瞳孔が拡大し、色のない蛍光灯を反射した。
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