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episode.7-5

「俺達は普通なら死んでたんだ。だが∞ウイルスとやらが、限界量を超えた輸血を可能にし、壊死した細胞すら再生し、体組織を再構築した。俺にはそっちの方がよほど注目するに足ると思うが」 確かに。起死回生の万能薬とあれば、副作用さえ除ければとんでもない革新だ。 「それにウイルスの名前、∞(メビウス)…ドーピング剤に付けるには妙だろ」 「Mobius strip…メビウスの帯。半回転を加えることで、表裏の区別が出来ない単側性の輪、でしたっけ」 帯に沿って文字を1周させると、何時の間にか反転して鏡像になってしまう。 ループ構造ではあるが、帰ってきた時は捻れて逆を向く。 一体何を揶揄しているのか。考えたら自分達の境遇を思い出し、萱島はまじまじと相手を見返していた。 「そっくり同様にとはいかないが、元の場所へ帰る…∞ウイルスとは、本来命を繋ぐために創られたんじゃないのか」 仮にそうだとしたら、だとしたら何だ? ウイルスの製作者、御坂康祐の思惑は別にあるというのか。 2人黙って会話は途切れ、ようやっと車が発進した。 思考中も煩わしい、誰かの目が次々と車体を追いかける。 精々胡座をかいていろ。 所狭しと並ぶ監視カメラへ、萱島は礼の代わりに中指を立てた。 何か、階段を慌ただしく駆け下りる音がした。 牧は簡素なパイプ椅子に掛け、病院らしからぬ喧騒に眉を寄せた。 此処はいつに来ても落ち着きがない。そして土の下の基礎まで腐っている。 嫌な場所だ。否、場所の所為だけで無いのだ。 来ると決まって目を背けた罪がダストボックスから蘇り、内臓を食い荒らさんと襲い掛かる。 閉じた瞼まで貫いて。 覆った手を退かし、牧は呆然とベッドに横たわる男を映した。 空調に揺れる赤い髪。 身長ともども大きな手。 数多のチューブに命を繋がれた、八嶋徹の姿也をじっと見ていた。 “――…おい、餓鬼” 出逢った当初、当人だって未だ餓鬼だった癖に。 此方の面倒を見ると言って、半ば無理やり外へ引っ張られ、望まない共同生活に組み込まれ。 年上の癖にがさつで、のらりくらりと適当で、 細かい事が何より苦手で。 反して誰よりも世界を見て、全員のこの先を護っていた。 言い難い奴だ、お前は。 牧はゆっくりと腰を上げ、頭上から男を見下ろしていた。 何にも代え難い、唯一無二の存在。 彼があの日自分を庇い、爆風に晒された瞬間を思い出していた。 最後に聞いたのは八嶋の声だ。 あらゆる物が光に包み込まれ、全員が一切音の無い空白に飛ばされた。 その幕間は3次元の概念を超えていた。 刹那なのに、現在までの映像がコマ送りに駆け。 死を本能的に感じて、力を手放して。 身を委ねようとした上から、しかし何かが覆い被さっていた。 (熱い) 痛い。悲鳴もない、苦しみ藻掻いた先、今度は何も見えない闇の中、誰かが慰める様に頭を撫でた気がした。 温かい感触だった。 子供の頃を思い出す…昔誕生日ケーキを前に、カメラを向けられたあの瞬間の様な。 「…どうして俺だったんだろうな、八嶋」 どうして咄嗟の判断で他を置いて、此方に飛び込んだろうな。 絞り出す声に、答える人間が居ない。 目覚めて、襟首を掴んで揺さぶろうが、何も分からず。 回想していた牧の視界へ、ふとサイドテーブルに置かれた果物ナイフが過った。 もう殆ど、縋る様に掴み取っていた。 震える筋にも構わず、逆手に握り締め。気付けば横たわる男の頭上へ 「…何度も眠る度、あの日の夢を見る」 何も知らず眠り続ける体へ、首筋を伝う汗が落下した。 「どうすれば良い…八嶋、俺はどうすればこのループを抜け出せる」 ナイフを握り締め、泣きそうに顔を歪めたいつかの少年が佇んでいる。 刃先は相手の首筋へ向く。 これを、殺して一体何になる。 けれど、もう、駄目だ、見ている事すら。 殺す、殺すしか耐えられない、 もう殺すしか 「殺すのか?」 カラン、と硬質な床へナイフが滑り落ちた。 牧は知らない間に入り込んでいた第三者へ、落ち窪んだ目を向けた。 「お前がエゴで彼をそうした癖に、勝手に終わらせるのか?」 入り口に背を預け、見慣れた高校生が口元を歪めていた。 彼に、戸和にこの病室を教えた覚えは無い。 コイツはそうだ。いつだって突然現れた。 胡乱な制服を睨め付け、牧は相手へ憤りの矛先を移した。 「…知った風な口を利くな」 当然の反論に思えた。然れど青年は、その指摘をあっさりと否定した。

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