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episode.7-7
気分が悪かった。
いつもの目眩にやられながら、戸和は少々慌ただしいロビーを突っ切ろうとした。
「――…監査官!」
大声で役職を呼ぶな。殺してやろうか。
蟠りをどうにか腹へ押し込み、駆け寄るスタッフを振り返った。
「走るなよ」
「お疲れ様です…兎に角、一度上へ…水原先生の秘書が」
呼吸と共に台詞を切らし、アバウトな用件を寄越す。
相手のネームプレートを見た。
単なる使い走りらしく、聞いた所で何も深くは知らなそうだ。
戸和は早々と彼の横を擦り抜け、階段へ歩き出した。
視界の色が悪く、天井が湾曲する。
この病院はこんなに導線が悪かったのか。
御坂が作っていれば、もう少しマトモになった物を。
「…ああ、戸和くん!」
5階へ上る途中、差し迫った女性の声に弾かれた。
「良かった、捜していたの」
水原の秘書。腰の重い彼女が部屋から出る程だったのか、携帯の電源を切っていたから反応が遅れた。
しかし不味い状況になったとして、真っ先に呼ばれるとは思わなかった。
なんせ煙たがられているイレギュラー・ポストだ。
未成年でありながら、殆ど御坂の推薦だけで中枢に介しているのだから。
「部屋に来て、私から相談があるの」
「貴女から?水原先生はどちらへ」
「今、彼は、報告へ…ほら早く入って」
たかが数段で息を乱す、秘書は相手を招き入れるや執務室を施錠した。
「…ああ疲れた、大変よ戸和くん。アイツ君の派遣先に、簡単にゲロっちゃったみたいなの」
ほつれた髪を掻き上げ、勝手知ったる水原の椅子へ身を投げた。
この部屋の2人の関係は知っていたが。
それを踏まえても態度がでかい。
「帰ってくるなり様子が可笑しいから問い正したわ、あのチキン…妙な所で暴走してくれちゃって」
「どの道其処まで辿り着いたんだ、バレる話です」
「…相変わらずクール、素敵ね」
綺麗に彩られた唇が弧を描いた。
身体で椅子を奪った説もある。が、この女性は痛い傷を突くのが上手いのだ。
「ねえ、顔色が悪いわ…大丈夫?」
清々しいほど寄り添う気配がない。
喜色さえ含ませて、秘書は下方から相手を伺い見た。
「貴方はそんな状態になっても、御坂所長に心酔してるのね」
「……」
「命を救ってくれたから?それとも水原みたいに才能に惚れた口?」
「用件は?」
「ふ…戸和くん、ならもっと大好きな彼の功績をアピールしなきゃ駄目よ」
小さい子に言い聞かせる様に、ただしねっとりと艶を含めて。
不要に身を屈める。魅せつけるかの如く。
「知ってるわ…本当は殆ど完成してるのよね、あのウイルス。大鷹大臣は進展の無い研究に痺れを切らしてるみたいだけど、彼の素晴らしい成果を見たらどう思う?」
言いたい事は分かる。その意図も理解できる。
しかし御坂が望まない限り、勝手な真似は致しかねる。
「もっと予算も割いてくれるし、何があっても研究所を護ってくれるわ。だって有益なんですもの」
∞ウイルスは約1年前、2人の成功例を持って体組織再生と身体能力向上を示した。
ただし戸和の知る限りでも、それ以来御坂が副作用を取り除けた話は無い。
(そもそも彼の目指す所は…)
「…外野が言うのも憚られるけれど、私彼の目指す完成形なんて不可能だと思うわ」
掻き上げた前髪が再び影を落とす。
表情の見えない秘書は、珍しく床を向いて声色を落とした。
「だって息の無い人間に有効な薬なんて…そんなの人の許された域を超えてるでしょ。知ってる?蝋で翼を作った彼は結局…」
「兎に角、今後の事はまた改めて招集でお話しします。ご質問があればその時に」
いつだって変わらず真っ直ぐ伸びていた。
毅然とした青年の姿を見上げ、秘書は眩しそうにシャドウを乗せた目を眇めた。
「貴方の意見は無いのね」
意見というよりも。
現在の彼女は、他愛のない感想を求めていた。
水原に対する悪態でも何でも構わない。
そうでないと、余りにもこの青年が機械染みていて。
「本当に顔色が悪いわ、一度御坂所長に診て貰った方が良い」
「ご忠告有難う御座います」
「心配よ」
机上の携帯を手に、秘書は沈んでいたオフィスチェアから立ち上がった。
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