78 / 111

episode.8-5

「遅い」 部屋に帰るなり、無愛想な少年が苦言を呈した。 「直ぐ帰ってきたじゃない」 「良いからこれを見ろ」 言うや手近の暗幕を剥ぎ取った。 隠されていたゲージには、所狭しと駆けまわるラットが居た。 (…?) 檻の開閉部分が目張りされている。視線で説明を乞うと、戸和はいつもの様に端的に述べた。 「さっき自分で檻を破壊して脱出した」 御坂の挙動が止まった。 未だ興奮冷めぬ様相で、ラットの瞳は充血している。 「…噛まれなかった?」 「ああ」 「そう、捕まえてくれて有り難う」 ゲージを抱え、何事も無い面で御坂は奥へ引っ込んだ。そのまま扉を閉ざし、少年を無用な情報からシャットアウトする。 机上に対象を降ろし、考えに沈む。薄いレンズの奥で、慧眼が白い姿を追い掛けた。 先週、微量の改良型∞を打った。合わせて戸和に施したものと同じ、採取した血液から増殖させたNK細胞を投与した。 御坂の予測では改良型は繁殖力が弱く、NKに敗北する筈だった。 それが現在ゲージを突き破る身体能力を齎し、明らかに感染症状を発している。 再び身体から採取したものを覗いた。顕微鏡の向こう側、ラットの血液には確かに改良型が根付き、持続感染を起こしていた。 (従来より変異のスピードが早い。しかも既に脳へ到達している) 改良型は試算を遥かに上回る勢いで増殖し、ラットの身体を掌握していた。 しかし既に目の充血も収まり、時が経てば健康その物の様を呈していた。 何故か。ラットの体内には、NK細胞も死滅せず共存している。 改良型はNKとの抗争を避け、よもや自らを良種にカモフラージュしつつ体内へ触手を伸ばしていた。 「……」 カラン。御坂の左手から、走り書きに使っていた万年筆が滑り落ちた。 確かにウイルスの目的はあくまで自己増殖であり、感染者を死に至らしめることでない。 免疫との戦いも、毒性も本意でないのかもしれない。 が、果たして。 その自らの使命を理解して、最善の立ち位置を模索するなど。 思考するウイルスなど、 そんなものは、呆気無くすべてが敗北するのではないか。 これまで感じた覚えのない悪寒が募った。 シャーレをオートクレーブへ放り込み、御坂は直ぐに閉じたドアを開いていた。 「――戸和、頼まれてくれるかな」 「何だ」 「PCの中身を削除して欲しい」 「…他は?」 「残してないよ」 勘のいい少年は、異なる様子から触りを察したのだろう。 それ以上何も聞かずラップトップを立ち上げた。 「ほんと、君ばっかり物分りが良くてね」 自分も片付けをしながら、笑う御坂はもう平常に戻っていた。 冷蔵庫を開け、今日分の投薬を用意し始める。 「もう直誕生日だったかな」 履歴書などとうに渡っている。されど態々記憶して話題に出した。 少年は主治医と、今は上司である相手を怪訝に見上げた。 「…それがどうした」 「何か欲しいものは」 「無い」 「あはは」 戸和が突っぱねる度、何が可笑しいのかいつも笑う。 そして次には決まって目だけ表情を引っ込め、窺い知れぬ未来の方角を向くのだった。 操作の手を止め、少年は視線の外れた相手をじっと見る。 現在まで出会した覚えのない、成層圏を歩いている様な掴みどころのない男を。 「甘い物は嫌いじゃないんだっけ」 また、予測不可能な台詞を繋げた。 「シュークリーム食べにいこうか、今度」 理解できなかった。どうしてこの世界にいて、そんな裏のない表情を生めるのか。 戸和が黙ると、彼は労る様に頭を撫でる。 静かな時間が来ていた。 手元のラップトップだけが、リカバリDVDを呑み込み奇妙な唸りを上げていた。

ともだちにシェアしよう!