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episode.8-5
「遅い」
部屋に帰るなり、無愛想な少年が苦言を呈した。
「直ぐ帰ってきたじゃない」
「良いからこれを見ろ」
言うや手近の暗幕を剥ぎ取った。
隠されていたゲージには、所狭しと駆けまわるラットが居た。
(…?)
檻の開閉部分が目張りされている。視線で説明を乞うと、戸和はいつもの様に端的に述べた。
「さっき自分で檻を破壊して脱出した」
御坂の挙動が止まった。
未だ興奮冷めぬ様相で、ラットの瞳は充血している。
「…噛まれなかった?」
「ああ」
「そう、捕まえてくれて有り難う」
ゲージを抱え、何事も無い面で御坂は奥へ引っ込んだ。そのまま扉を閉ざし、少年を無用な情報からシャットアウトする。
机上に対象を降ろし、考えに沈む。薄いレンズの奥で、慧眼が白い姿を追い掛けた。
先週、微量の改良型∞を打った。合わせて戸和に施したものと同じ、採取した血液から増殖させたNK細胞を投与した。
御坂の予測では改良型は繁殖力が弱く、NKに敗北する筈だった。
それが現在ゲージを突き破る身体能力を齎し、明らかに感染症状を発している。
再び身体から採取したものを覗いた。顕微鏡の向こう側、ラットの血液には確かに改良型が根付き、持続感染を起こしていた。
(従来より変異のスピードが早い。しかも既に脳へ到達している)
改良型は試算を遥かに上回る勢いで増殖し、ラットの身体を掌握していた。
しかし既に目の充血も収まり、時が経てば健康その物の様を呈していた。
何故か。ラットの体内には、NK細胞も死滅せず共存している。
改良型はNKとの抗争を避け、よもや自らを良種にカモフラージュしつつ体内へ触手を伸ばしていた。
「……」
カラン。御坂の左手から、走り書きに使っていた万年筆が滑り落ちた。
確かにウイルスの目的はあくまで自己増殖であり、感染者を死に至らしめることでない。
免疫との戦いも、毒性も本意でないのかもしれない。
が、果たして。
その自らの使命を理解して、最善の立ち位置を模索するなど。
思考するウイルスなど、
そんなものは、呆気無くすべてが敗北するのではないか。
これまで感じた覚えのない悪寒が募った。
シャーレをオートクレーブへ放り込み、御坂は直ぐに閉じたドアを開いていた。
「――戸和、頼まれてくれるかな」
「何だ」
「PCの中身を削除して欲しい」
「…他は?」
「残してないよ」
勘のいい少年は、異なる様子から触りを察したのだろう。
それ以上何も聞かずラップトップを立ち上げた。
「ほんと、君ばっかり物分りが良くてね」
自分も片付けをしながら、笑う御坂はもう平常に戻っていた。
冷蔵庫を開け、今日分の投薬を用意し始める。
「もう直誕生日だったかな」
履歴書などとうに渡っている。されど態々記憶して話題に出した。
少年は主治医と、今は上司である相手を怪訝に見上げた。
「…それがどうした」
「何か欲しいものは」
「無い」
「あはは」
戸和が突っぱねる度、何が可笑しいのかいつも笑う。
そして次には決まって目だけ表情を引っ込め、窺い知れぬ未来の方角を向くのだった。
操作の手を止め、少年は視線の外れた相手をじっと見る。
現在まで出会した覚えのない、成層圏を歩いている様な掴みどころのない男を。
「甘い物は嫌いじゃないんだっけ」
また、予測不可能な台詞を繋げた。
「シュークリーム食べにいこうか、今度」
理解できなかった。どうしてこの世界にいて、そんな裏のない表情を生めるのか。
戸和が黙ると、彼は労る様に頭を撫でる。
静かな時間が来ていた。
手元のラップトップだけが、リカバリDVDを呑み込み奇妙な唸りを上げていた。
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