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episode.8-9
現在までの記憶が洪水の様に押し寄せた。
対面した初め、突然やって来た戸和、そして彼が義理の息子である神崎に向ける温情。
パイプ椅子が転び、一室で派手な音を立てた。
青年はじっとその場に張り付き、雁字搦めに抜け出せずに居た。
「――おい大丈夫か?」
物音を心配した声が届く。
千葉が出入り口を開け、相手を伺っていた。
「…ああ」
「お前本当に寝た方が良いぞ」
「分かってる」
牧は尚も動かない。
表層を変えた千葉が、不審げに側面へと近づいた。
「…頭では分かってたさ、何時までも俺の下らない感傷で大勢を巻き込んで。いい加減にしろって事も理解してるよ」
「いや…」
蒼白な千葉は深く頷けもしない、切り捨ても出来ない。
今日になっても彼のトラウマに、芯から答えを出せない。
「下らないなんて…そんな話じゃないだろ」
「しかし前に進むって、何だ千葉」
デスクに両腕を突く、牧の頭が深々と項垂れた。
2人の脳裏には唯一掻き消されない、今はなき八嶋の炯眼だけが。
「前はどっちだ」
PCの液晶には古い型のブログが映されていた。
今打ちのめされている、牧が一体何を見付けたというのか。
絞り出したからからの声が、千葉の心臓を抉った。
「…お前の行きたい方が前だ、牧」
幕が閉まろうとしているんだな。過去に停滞する病巣はもう、終わりにするんだな。
「俺には最初から羅針なんて無いんだ、連れて行ってくれ」
最後まで付き合う。そう断言した千葉に、責任者は歳相応の目で面を上げた。
現在になって、唯一隣にいる相手と視線を交わす。
漸く同じ物を見ている気がした。
バランス感覚に優れた彼が、世界も放って牧の側へ立っていた。
「…分かった、行こう」
PCを畳み、ふらりと踵を返す。武器庫へ向かう姿に、千葉は言われずとも進路を知ってしまった。
だが振り返りはしなかった。自分達が部屋を出た、その姿をじっと見ていた存在にも気付かず。
(あ…)
渉は踊り場の影から見送り、結局飛び出すタイミングを失った。
(2人とも何処に行くんだろう)
今日こそ一緒にご飯を食べようとしていたのに。
でも今日もきっと無理だ。以前にも増して、自分のまったく知らない顔をしていたから。
「――牧と千葉が帰ってこない?」
22時を過ぎ、神崎らは帰社するや渉に飛び付かれた。
もう子供は寝る時間にも関わらず、気が気でなく待ち構えていたのだろう。
「直帰の連絡無かったのか」
「…何も無い。多分、お昼過ぎに出てってから」
その言い草では、外出の報告も無かったらしい。
他の職員に聞いても何ら情報は上がらず、神崎は一端少年を自室へ追いやり、萱島を引き連れて牧の書斎へ向かった。
この一室は殆どあの2人のプライベートルームだ。
八嶋の代替に牧が立ち、千葉が補佐する様になってから。
自分達だけ絶海に取り残された様に、以前には無いほど結託してこの場で。
「神崎社長…このブログは」
ブラウザの履歴を開いた萱島が声を上げた。
背後から覗くや、珍しく暴君が顔色を変えた。
さっき聞いた寝屋川の報告すら、彼らが耳に入れていたとしたら。
「おい急ぎの仕事がある」
「はい?」
「あの餓鬼2人を止めて来い」
行き先を知ったような命令に、汲み取れない萱島が画面と神崎を見比べる。
「…何方へ?」
「帝命製薬だ。恐らく、同僚の仇討に御坂を殺しに向かってる」
合間の説明をすっ飛ばされて訳が分からない。
しかし神崎が過程を加えて話そうが、結局萱島は理解し難い面で反論した。
「お話は分かりましたよ…けど如何せん、突っ込みどころが多過ぎやしませんかね。息子を奪い取る為に、あんなイカれたウイルスを使うとは思えない。しかも仕様を理解した人間が」
神崎は黙って聞いている。
答えが無い故、苛立つ萱島が更に追尋を寄越した。
「それからあの高校生、事件後に派遣されてからずっと此処に出入りしてたんでしょう。少年を攫う隙間なんて幾らでもあった筈だ、俺でも疑問に思う件をあの2人が見過ごす筈がない」
一通り引っ掛かる点を並べたが。雇用主は天井の方角を見やったまま、それらを一蹴した。
「萱島、アイツらのブレーンはな。1年前に全部壊れてるんだ」
確かに衝撃的な件ではある、然れどあの聡明な青年が其処まで直情的になるだろうか。
「――これを見ろ」
神崎が思考を遮った。
手元が幾重にも折り重なる階層を開き、隠しフォルダへ到達した。
パスワードを入力してテキストを展開する。
びっしりと隙間なく並んだ字面に、萱島は圧されて後ずさっていた。
(何だ…?このトチ狂った文章量)
内容を追い掛け、気味の悪さに目を剥く。
其処には職員の氏名、生年月日、出身に始まり…異常に細かい現在までの経歴や個人的な嗜好、
思考のアルゴリズム、
取捨選択の傾向やあらゆる癖や挙動特徴まで
気が狂いそうなほど網羅され、客観的なパーソナルデータが埋め尽くしていた。
「全部で11人分だ」
「…いや、ああ」
記憶喪失でも。言い掛けたが、その時点で嫌な予感はしていた。
11人と言えば、今の本部職員から牧と千葉、そして少年を抜けば。
「あの襲撃の後日、2人が土下座して頼み込んできた。全員分の治療費に7億近い金が必要だと。別にそんなもの下げずとも出すつもりだったが、確かに後に思えば様子が変だった」
仰る通り、会社で起こった一件であれば責任は神崎が持つだろう。
ところが牧はきちんと保険料を引いた見積もりまで持ち出し、態々頼み込んだというのだから。
暑くもない室内、背筋を妙な汗が滑り落ちる。
落ち窪んだ青年の、病的な目がフラッシュバックしていた。
「やけに馬鹿高いですね…実はP2から∞での治療を提案されたとか…」
「いいや、P2は治療薬として∞を提案した前例はない。そもそも、∞は生きた人間にしか感染し得ない」
鍵を掛けた一室、行き場のない彼らが藻掻いた跡が散らかっていた。
ほうら見ろ、嫌な予感ほど当たるんだ。
タイルの隙間を睨み付け、萱島は続く真相を呆然と待ち受けた。
「昨年の10月4日、メインルームの爆発により八嶋徹以下11名が全員死亡した」
デスクには数年前であろう写真が飾られていた。
未だ少年の彼を撫でやる、赤い髪の太陽を思わせる青年が居た。
「それからあの餓鬼2人がやったのはな、体格の似た戸籍の無い人間を3000万の頭金で買い取り、手から顔からそっくり同じに塗り変え、変声器を埋め込み…骨の髄から教育を施して、代わりの人間を作り上げた」
職員らの引き攣った皮膚が浮かぶ。
あれは火傷跡じゃなく、全身整形の後遺症だった。
どうしてそんな事をした。
文字列を並べてマクロを組み立てるのとは訳が違う。例えまったく同じ要素を集めたとして、同じ人間を創り出すなんて不可能なこと。
賢いお前なら分かってた筈だ。
「俺には理解できないが」
ただの傀儡を動かして、それで一体何が満たされるのか。
まるでたった1人で飯事をしている子供じゃないか。
「この本部はな、アイツらの記憶が創り出した夢の国なんだよ」
今まで散々見てきた。
人間なんて、死ぬ方が誕生よりよっぽど簡単だった。
死んだ瞬間、ぷっつりと道は事切れるのに。
その帯をまた誕生まで繋げようと、必死に輪を繋げようとする人々を。
今まで散々。
next >> episode.9
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