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episode.9-1 「我々の明日について」
ある日、世界の全部が無くなった。
未だ明けきらない狭間、当時牧は久方振りに会社へと向かっていた。
随分と長い間眠っていたらしく、期間にして2週間。
その間に世間が変わるかと思えばそうでもない。
相も変わらずマスコミは下らない題材で煽り、零区は我関せず銃を撃ちあう。
いつものパン屋で朝食を買い、南エリアへ橋を辿る。
いつもと同じ背景の中、牧は鳩尾の辺りを擦った。
どうも、胸くそ悪い夢を見ていた。
夢の癖に彼方此方が痛む。
八嶋に頼んで、少し有給を貰おう。
正面入口を抜け、地下へ下る通路に差し掛かる。
ぼんやり今日の会話を想定しながら、しかし其処でふと鼻を突く臭いに脚を止めていた。
煤だ。
火事場の、煤の臭い。
牧は目を剥いてエントランスを見渡す。
夢の中に同じ、穴だらけの扉が無残に転がっていた。
(…何で現実にこうなってる?)
急に真夏の様な暑さが襲い来た。
息を潜めていた魔物が這いより、四肢から呼吸器から絡み付いてくる。
あれは一体、何処まで本当だった。
何も働かない。
汗だけ止まらない。
痙攣する手から紙袋が滑り落ち、牧は頭蓋骨を叩く警鐘に真っ白になっていた。
(違う、中に入れば居る筈だ)
目の奥が燃える様に熱く、手から全身へと震えは伝染していく。
八嶋が消し炭になったのは夢だ、佐瀬の四肢が千切れていたのも、ある筈がない。
そんな筈がない。
吐きそうな緊張を携えたまま、それでも縋る様な思いでメインルームへ歩く。
既に近づく度に、異常な火事場の匂いが充満し始めた。
「…お前ら、何処に居る」
もう2週間も経っていた。
然れど未だリフォームもなく、杜撰な現場はあの時の儘だった。
あの時の。
映像が作り物でなく、まざまざと真実として叩き付けられる。
辿り着いたメインルームは全焼していた。
微塵も人の気配無く、終わりの匂いだけ壁中にこびり付かせて。
立ち尽くす青年の背後、足音が迫っていた。
メインルームの入り口には、千葉が立っていた。
「…お前」
まさかその容態で現れるとは思わなかったのだろう。
二の句が継げず、放心状態で佇んでいた。
「怪我、未だ…」
「なあ千葉、皆は病院か?」
すっからかんになったメインルームの空洞、声は想定外に良く響いた。
千葉は動かない。
相手の面を見るのが恐ろしく、端でじっと留まっていた。
「…渉はそうだ」
「他は」
「死んだよ」
オブラートに包もうが、気を挟もうが、伝える真実なんて変わらない。
誤魔化すのは優しさじゃない。
直視しなければ、乗り越えてはいけない。
「お前、もうあの日俺が来た時点で分かってたんだろ」
一切を喪失した様に、真っ青な顔で自分を向いた時。
助けてくれ、と乞うた時点で。きっと牧はもう、卵が砕けたのを本能で理解していた。
「…何?」
「これから色々、考えないと」
「分かってたって何をだ?死んだ?何を言ってる?」
「死んだよ、八嶋も」
「…はあ?馬鹿かお前、何なんだよ、病院を言えよ」
俺はどうすれば良いんだ。
その時、目前で見る見る秩序を欠いて崩壊し始めた親友に。
千葉は両手を握り締め、所在も分からない神さまへ縋りたくなっていた。
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