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episode.9-3
“渉はもう直に戻る”
その日戸和からのメールを受け、千葉は真新しい机に座り込んでいた。
戸和は殆ど直後に採用が決まった臨時職員だ。以後、会社にこそ現れないものの、事後処理や渉の世話を手伝っているらしい。
さて此方の教育はもう大詰めまで進んでいる。
退院してからの期間で、良くぞ此処まで洗脳を仕上げたものだ。
しかし千葉ですら、彼らを前にする度退っ引きならない違和感を覚えた。
自分が、一から作り上げたという違和感。
逆立ちしたって本人じゃない、組み立てられた虚構。
此処は何処だ。
未来にも行けない、過去にも戻れない。
この世の何処でも無い場所で、このメインルームは寄る島もなく彷徨っている。
「渉が帰ってくるらしいな」
不思議な事に、牧は自然に話せる迄になっていた。
以前とは人が変わったものの、もう蹲るでも無く。
「ああ」
「――さてお前ら」
2人は目前、並ぶ作り出した怪物を見ていた。
金の為に全てを差し出した、自我無き名前無き人間。
「明日から本番だ、間違いは許されない…お前は誰だ?」
手近の肩を捕まえる。
整形後が痛々しくも、男は淀みなく答えた。
「佐瀬だ」
「そう、お前は佐瀬だ。俺達は今から雇用関係じゃない、十数年来の仲間だ」
一体どんな面をして言うかと思えば、牧は平然と取り繕っている。その顔が、何よりも痛々しく見える。
俺達は許されざる事をした。
自分達の生み出した虚構へたった1%、渉という真実を招き入れた。
無邪気な少年の笑顔に世界は色を戻した。
観客を迎えるや、演技は一層熱を持って真実味を増した。
渉が笑う度、俺達は勝手に救われた心地になる。
渉がよかったと安堵する度、計画に成功した俺達も安堵する。
現在まで累積して、数えきれない嘘を吐き続けた。
そしてすべての喪失から1年が経った現在も。
行き先も告げぬまま武器を手に、よもや少年の父親を殺しに向かう、世紀の大罪人と化していた。
「この始末が終わったら、必ず一生を償いに捧げます」
張り巡らされた鉄条網の外、暗がりに膝を突いた千葉は空の何者かへ祈りを押し抱いた。
「…後少し俺達に時間を下さい」
煌々と眼の奥が光を宿す。
未だ最後の目的を胸に、青年は影の中体を起こした。
「――牧」
無線を繋げた相手を呼び出す。
彼がセンサーを破壊するや、突入する運びになっていた。
真夜中へ向かう、一層暗い闇が辺りを呑み込む。
不穏な風が追い越し、突き抜ける先を千葉はじっと見据えた。
「方角は?」
北エリアを占める研究所は、圧巻のスケールで闇夜に聳えていた。
静かに木へ飛び乗り、1000人は収容されているであろう全容をインプットする。
耳元へノイズに被った低音が届く。
了承して、千葉は目標の本館最上階へ目を凝らした。
さあそろそろ結末へ、2人無事には帰れなくとも。
残った人間が本部の事、犯した罪の事、渉の事、すべて背負って生きていけ。
何故なら運命共同体なのだから。
その為の2人なのだから。
いつか見た花火の様に、視界の端で狼煙が弾けた。
深く息を吸い、枝の隙間から塀の向こうへ飛び降りた。
「――し、侵入者…」
最初に目に入った警備を蹴り下ろした。
昏倒する姿を背に、千葉は予定していた進路を豹の如く擦り抜けた。
既に上空では警鐘が鳴り始めている。
本館へ走る2つの影を、火の様なサイレンが逃すまいと追い掛けた。
『第8エリアより侵入者、第8エリアより侵入者…只今より警戒レベルA1を展開、警備員は直ちに出動を命ず』
これは訓練では無い。スピーカーが幾重にも音を重ねる中、通路の先から何十人と警備が走ってきた。
彼らがのろのろと武器を構える。
そんなものは待ってやらず、千葉は一足飛びに渦中へとナイフだけで斬り込んだ。
「…あ、この…」
怯めば終わりだ。千葉は前しか見ない。
殺す目的でないにしても。
一瞬の隙間、迷いなく刃先を滑らせて突っ切る。
手脚から鮮血を吹き上げ、何も追い切れない警備は遅れて痛みに悲鳴を上げるのみだった。
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