95 / 111
episode.9-12
「…大体!見ろこの状態を!情けを掛けた所で、どうせ直に死ぬに決まって…」
「し…ぬ…?」
萱島は脚元から生まれた声に視線を下げた。
血混じりに喘鳴する男が、拠るものも無く宙を見ていた。
「…死、死にたくない…死にたくない」
這い蹲る姿が胸を掻き毟る。
壊れたオーディオみたく、何度も嘆願だけを繰り返す。
「助けてくれ、死にたくない、か…家族」
喉に支えた血を吐き出した。
本郷の道徳が、まんじりともせず理不尽を映す。
「む、娘、が」
ひゅっと気管支が狭まった。苦しみ想いを喘ごうとした、彼の全身が衝撃に戦慄いた。
弾けた血飛沫に、萱島は驚いて口を閉ざす。
現在まで躊躇していた上司が、真っ直ぐ男の喉へナイフを突き立てていた。
「――…解離性とは良く言ったものでな」
伏せていた瞼がゆっくりと開く。
鈍色の煌めきを帯びた、サイコキラーが覚醒して此方を見ていた。
「結局俺と本郷は似たような矜持なのさ。弱者を慈しむ、醜いモノを壊す…結局そんな程度の話だ」
刃物の血を払うと、相模は防火扉を抉る弾丸も意に介さず立ち上がる。
萱島は傍らで絶命した男を見た。不思議と今の生者の面よりも、よっぽど安らかに思えた。
「可哀想に、アイツらはもう長くねえのか」
「…ええ。安全性が確立してるなら、早々と入り口の段階で使ってるでしょうからね。追い詰められた糞のやる悪足掻きです」
やっと来てくれた援軍に安堵しつつ、萱島は第二波を感じ取って前を睨む。
「なら殺してやるか」
先の無い階段を上るなら、早々と崩してやるべきだ。せめて死に際こそ最も美しく、最上の敬意で以って。
「それが慮った愛情だって?」
「如何にも。俺は形ばかりの睦言を囁く気なんて無い」
タナトスと呼ぶに相応しい男は、今日もやけに美しい笑みを湛えた。
「与えるのは死という普遍の真実だけだ」
なあ萱島。
姿勢を屈め駆け出す手前、唐突に問われた。
もしも御坂康祐がウイルスの完成版を公開したらどうなっていただろうな。
さて、此処に居る彼らは自分達と同様で。いいやそもそも零区の成立すら無く、相模の様な人間ならば談合など掃き捨て、統制に従うべくもない。
きっと果ては暴力だけがぶつかり合い、殺す為に殺し、世界は欲望の下に終末を迎え。
「…まるで神の裁きだな」
つい零していた。
柄でもない、神なんて偶像を。
“予後1年間、当該被験者を経過観察した。被験者の生来持つ性質に加え、β版が生んだと思しき残虐性が共存していた。”
大鷹の私室には、先般内閣府へ送った論文資料が散乱していた。
“最も重要なのは、その「共存していた」という点である。被験者の人格を破壊する事なく、また理性という判断軸を残したまま、β版は戦闘員たる能力向上に成功した。”
その数十ページに渡る成果への返答は、「全て根拠・理論共に不十分」であった。
当たり前だ。開発者の御坂康祐は何も話さない。
外野が必死に空論を並べた所で、自衛隊の緊急配備を要請しようが折り返しすら無かったのだ。
“更にβ版感染者は、敵の能力を意思決定要因に含めている。畢竟するに、能力的に劣る人間、もしくは拮抗する人間を選択して攻撃する。”
胸を張って見せた所で、大鷹は八方塞がりだった。
巨額の費用を投資したこの街ですら、何の発展も待たず窮地に落とされた。
結局このプロジェクトはあの天才有りきで、彼無くしては何も前に行かない。
“β版感染者は、力による統率が可能な事を示す。”
よって、本プロジェクトは既に完成を視野に――…
続く文面の馬鹿らしさに握り潰していた。
神を掌握する事は出来ない。
御坂は限りなくそれに近い。
だが同時に、奴はたった一人の女を愛した。
天賦の才を我儘に窶し、どう見ても人間に等しく足掻き。
(お前は神じゃない、我々の側だ)
ならば君も恣意を絶つことなんて出来ない。
必ず揺すれば傾く。
「もう、あの女の死体を、最悪…」
「相も変わらず軽率だな」
全身からドッと汗が噴き出した。
大鷹は何も発せず、只々正体の分からぬ声に喉を詰まらせた。
まったく知らぬ間に、背後の出入り口へ第三者が佇んでいる。
淀んだ空気を貫く澄んだ声で。
懸命に首だけでも回せば、ドアの付近には男の影が長く伸びていた。
「いつもそうだ。人を煽る才能だけ身に付けて、中身はただの空虚な夢か」
「…き、君は」
データと照合しようが引っ掛からない。
見た覚えもあったが、それ以上でもそれ以下でも無い。
ともだちにシェアしよう!