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episode.9-18

「ねえ先生は?先生は此処に残るの?」 「未だやる事があるからね」 「俺、先生に2回も助けられた。ちゃんと今度お礼するよ」 ほんの小さな手が、神と称された御坂の手へ重なる。 「名前教えて!」 夜間着陸に備え、強烈なサーチライトが逆光を生んだ。 暗がりで尚明るい少年の笑顔が、何の衒いもなく先の約束を促す。 御坂は呆然と目前の我が子を見ていた。 風にはためく黒髪の向こう、純真な瞳へ確かに自分が写り込んでいた。 「、わっ」 気付けば腕を引き、叶わないと思った身を抱き締めていた。 恐ろしい程に小さくて。燃える様に生きている。 幾度となく報告の写真で眺めた。 その度に大きくなる姿也が、紛う事無く現実のものとして自分の腕に収まっていた。 「…今から話すことは、全て聞き流して欲しい」 遠くで搭乗を部下が待っていた。 もう二度とは無い機会に、御坂は本音から懺悔を零し始めた。 「本当に勝手な大人で、何もしてやれなかった。それなのに少しずつ背が伸びていく、成長していく君が…たった一つ、この世にある希望に思えて」 白衣に額を埋めた渉は微動だにしない。 二度遭遇したに過ぎない彼が、例え意味の取れない台詞を綴っていようが。 「ずっと、君に会いたかった」 顔を上げた。毫も曇り無い目が、レンズと建前を潜って御坂を捉えていた。 何も言わない。 知らない筈の子供が、ぴくりともせず視線に繋がれている。 「もし会えたら、渡したかった物があってね。これを…持っていてくれないか。君を護る筈だから、失くさないで」 言って、御坂は左手にあった誓いを引き抜く。 純銀製の小さな輪を、そっと少年の手へ握らせる。 歪な捻れもない、ただひとつの純愛で繋がった美しい輪を。 中心で生まれた少年が、正体も掴めぬまま掌に抱いた。 御坂は最後に、その手を強く包んだ。 まるで言葉に出来ない真実を、どうにか欠片でも、愛した息子へ触れさせるように。 「――…さあ、行って」 少年へ促すと同時、背後へ迫っていた部下に身振りで示した。 彼は御坂にも搭乗を頼みかけたが。 既に責任者へ戻った顔を知り、黙って少年の腕だけを掴む。 「一緒にヘリに乗ろうか」 「先生、待って…!」 無理矢理に地面から剥がされ、微かに蹌踉めく。 不思議なことに、少年は尚も知らない男へ向いていた。 「俺、先生のこと知ってる!この前じゃない」 いつも不遜な笑みの相貌が、驚愕に歪んだ。 望んでいない訳じゃなかった。 然れど、こんな間際で。あまりに今更。 「…遥にでも聞いた?」 「違う!…もっとずっと前だよ、俺…」 エンジンの轟音を背景に、幼い声だけが御坂の胸へ突き刺さる。 必死に縋る黒目の奥へ、他人以上の感情が滲み出す。 返す台詞も無く佇んでいた。 今の去り際になって彼は、先に移したほんの僅かな体温で何かを思い出しかけていた。 「俺、先生と、何処かで会ったんだよね?」 張り上げる声が、悲痛さを帯びる。 タイムリミットの迫る屋上で、少年の体は否応無くヘリへ引き摺られた。 「ずっと昔に会ったんだよね!?待って…離して!」 抗おうとする腕に、部下は困惑したが。 葛藤の末、御坂は首を振った。 少年を遠ざけるよう、催促を込めて。 「ねえ、思い出しそうなんだ!今、もう少しで!」 渉を抑えつける部下が、スキッドを跨いで後部席に乗り込む。 パイロットが其方を振り返り、離陸の合図を伝えた。 「待ってよ、…!ねえ、」 キャビンのスライドドアが無情に両者を遮る。 重い体を浮き上がらせ、放たれる暴風が塵を舞い上げた。 御坂は一歩も退けずに見ていた。 厚い硝子の向こう、最後に見た渉は声も無く、しかしはっきりと口を動かしていた。 字数にして4つ。 直隠しにしていた癖に、底で渇望していた。彼には知り得る筈の無かった真実。 それはすぐさま向きを変え、見えなくなった。 息子の去った空を前に、御坂は呆然とその場へ縫い止められていた。 もしかしたら。 もし本当にただの、ひとつの可能性を挙げるとしたら。 この研究所を抜けて、普通の世界を歩んで。 渉と一緒に生きる未来も、何処かにあったのかもしれない。 恐らく毎日温かい食事を囲み、他愛のない話を並べ。 彼が日に日に大きくなるのを、直ぐ傍で測る。 そんな柔らかい日常が、先に存在したのかもしれない。

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