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episode.9-21

“冷暗所で摂氏10度以下。凍結・高温不可。使用期限は個別表示を確認のこと” 御坂の文書であろう、抗体の取扱説明書。 そして関する研究資料の入ったUSB。 簡易に目を通して、挟まるメモに気付いた。 “生きる為に使いなさい” 彼の直筆で、たった一言。 紛うこと無く、真っ先に到達するであろう青年に向けた走り書きだった。 黙って背後へ退く。 武器を放ってより、暴走していた自棄が急速に冷めていた。 「待機所のフロアに感染した職員が居る。助かりそうなら投与して、屋上へ運搬しろ。退却するぞ」 「しかし、これは…所長が貴方の為に」 「その所長は何処だ」 幾分落ち着いた声が請うた。 事情を知らない部下は、困惑しつつも上を指した。 「屋上からお先に、ヘリで離脱された筈です」 屋上ならば少なくとも静かだろう。 僅かなの間、瞑目していた戸和がその場から脚を剥がした。 「…有り難う」 階下には数名の足音が増えていた。 未だ潜伏していた職員らが姿を見せ、退却の段取りに集結しているらしかった。 残念ながら感染した職員に関しては、抗体が作用したとして数年だろう。 それは恐らく、自分同様。 屋上への階段を抜け、青年は重い鉄製の防火扉を開けた。 あの日目覚めた過去から一切、自分の生を齎したのは、間違いなく御坂康祐だった。 吹き曝しの地へ踏み出す。 既に朝焼けの満たす孤島、一つの白が浮く。 戸和は手摺に凭れた身体に近づいた。 夜明けを待たず冷えきった姿に、処理し難い衝撃が渦巻いていた。 「――…先生」 利き手に握られた銃に、推察されるは最後は決まっていた。 「貴方は…いつからその結末を?」 牧の居た気配は、もう跡形も無い。 この盤上で何が起こったのか、戸和には察する術も無い。 暫し抗えない憂悶に顔を歪めていた。 いつの間にか、視界の端には救援を志願したサーチライトが舞い込んでいた。 生きる為に。その台詞ではっと不毛な行為から面を上げる。 そしてヘリの着陸を誘導すべく、屋上の縁へと歩き出した。 動ける人員は全て運搬に走らせ、本館は着々と脱出に向かっていた。 御坂の託した研究成果物の一切、∞抗体、未だ生気を宿した感染者を積載し、羽を広げる。 直に押し掛けるであろう暴力団の群れへ、国の調査機関へ。 些少でも御坂康祐の遺産を残してなるものかと、一人の青年をCPUに懸命に走る。 サーヴァントはふと本館の外を見据え、侵略された光景に脚を止めた。 今日の、今日までの道なき闘争を省みて、崩れる巨大な骨組みの哀しみに、胸の内で哀悼を抱いた。 数千億の費用を投じ、蹉跌したこの研究をさて国は手放すのだろうか。 いいや、零区の様な大計画が鳴りを潜めた所で。 奴らは水面下で延々と、切れそうな蔦を手繰り続ける筈だ。 『―…5台確保しました、陣形を組んで一斉に退避します。指示願います』 「0417時の完了、出発。変更はない。ルートは現在地より北西へ向かい、海上を約150km…」 1台目のキャビン内部、戸和は監査官として最後の無線を飛ばしていた。 次第に雑音を増す背後、端的に終えて通信を切る。 先の希望なんて無かった。 持ち得た光は、褪せない恩讐の焔だけだった。 それでも方向の分からぬ前を探す。 戸和は静かに襟の記章を外し、隣で目を閉ざす御坂へ握らせた。 結局返す事は出来なかった、数えきれない救いへの礼を込めて。 6日未明より、現時刻における迄の数十人の犠牲。 発祥からの、把握しきれない検体、死者。行方不明者。 加えて我が身に放たれた怪物と、何者よりも尊い叡智の殺害。 覚えていろ、大鷹信彦。 感染者はお前を忘れず、死体となろうが喰らい付く。 お前だけじゃない。 この非人道兵器を齎し、あわよくばこの先の発展を企む全ての人間。 犠牲を良しとする圧政を、我々は許さない。 加担した自らの過ちを認め、ベルセルクの抹消を以った償いに殉ずる。 我々は現在より、国家公務員を脱する。 今日より、閣僚と相反する革命軍として抗う。 「――…アイツら」 ほぼ同時刻、本館中階。放送で静止していた萱島は、俄に現れたハイエナの群れに眉を顰めた。 此方には目もくれず感染者へ駆け寄り、選別と搬送の段取りをしている。 逼迫した今に検体回収とは思い難いが。 まさか奴らに、仲間意識などという物が存在したのだろうか。 「どうします先生、捕まえて餓鬼の居場所を聞き出しますか」 向こうも敵対するなら撃ってくるだろう。 働き蜂を眺めていた相模が、口を開く。 「待って下さい」 が、寸で新しい声が遮った。 勢い良く其方を向けば、なんと必死に捜していた当人が階段から降りてきていた。 「千葉…お前」 腹部は殆ど血で染まっている。 壁に手を突き、蹌踉としていた青年が突如膝から崩れ落ちる。 慌てて近付くも、相手は問題無いと制した。 しかしこの重傷、嫌な予感が湧いていた。 「おい、牧はどうした」 「…行方は分かりませんが生きてます。それより上に誰も、行かせないで下さい」 垂れた血を拭うや、漸く聞こえる程度の声量で乞うた。 「あれを、戸和を逃がしてやりたい」 死にかけて何を頼むかと思えば。果たして上で何があったのか。 萱島は思案した後、隣のもう一人と顔を見合わせる。 そうこうしている間にも、階下には足音が迫っている。 規律もなく、喧しくドカドカと踏み荒らす雑音。見ずとも育ちの悪い、暴力主義の団体様だと嘆息した。 「まあ、デカい借りが有るからね…」 早々と身を起こすや、萱島は出迎えるべく階段へ向かう。 ちっとも上手い文句は浮かばないが、上っ面は飄々として道を遮った。 息を切らせて現れたのは大城だった。 数名を引き連れた直参は、相対する萱島を見て百面相を寄越した。 「お前っ…何や、堂々と出てきて」 「先生話は後にしましょうや。そんなに急いで何を漏らしそうなんです」 「阿呆んだら、御坂の研究資料じゃ。中身なんや分からんでも、連中が隠す前に押収せんなアカンやろ」 「ありませんでしたよそんなもん」 「ああん?」 「大体この上には感染者がうようよしてるんです。アンタら、そんな無防備に出てって脳味噌溶けても知りませんよ」 「はあ…」 少々気圧された大城がたじろいだ。 しかしまあ決定打に欠ける。どうしたもんかと次手を悩んでいたら、背後から押し合いに相模が加わった。 「――RICは申し上げた通り中立だ。調査業務はウチが買い取るから、悪いが帰っちゃくれないか」 おお良くも。真っ当なフリをして言い切れたもんだ。 感心する萱島を他所に、大城は突っ掛かろうとしている。 「タダとは言わない。これをやる」 相模が何かを放った。慌てて下方の男が受け取る。 「…ビデオテープ?」 まさか。萱島は冷面の殺戮者に驚愕した。 この男さっきの間に、フロアの監視映像を抜いてきたというのか。 「闇市で売れよ。1本数千万で何ならプレミアも付くぜ」 「何やこれ実験の証拠映像とでも言うんか?そんなもん、感染者なんや腐るほど見とる…」 「…大城先生、不要なら俺にくれませんか。10…否、50億でどうです」 「は?50?」 「俺は先に千葉を運ぶからな、萱島。後どうにかしろよ」 回転の早い相模は踵を返し、踊り場には同じ界隈の連中が取り残された。 そして押し問答を続ける。上空では、既に積載を終えた数機のヘリが羽撃いている。 萱島は大城を諌めつつ、白み始めた空を見やった。 夜明けを連れ立つ5つの機体が、果てのない朝焼けへと逃避行に向かっていた。 一行は研究所を抜け、零区という嘗ての犯罪都市を去り。 羅針も希望も無い明日へ向かう。 潔く、決死隊の如く哀しき黒い鳥。 孤独に漂う彼らの背後、しかし後を追うように何者かが空へ飛び込んだ。 編隊の両翼には、知らぬ間に2機のホーネットが並走していた。 神崎の放った友軍の保護を伴い、革命軍らは燃え盛る朝日の方角へ吸い込まれて行った。 さて太陽神は彼らの翼すら溶かすのか。 結局悪とは何だったのか。 すべてが消えて確かに分かるのは一つ。 メビウスの輪とは、人間が生存し得る限り回り続ける 御坂すらも抗えない、人が創り出した究極の“業”であり 微塵も偽りの無い、“愛”だった。 next >> Epilogue

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