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第1―2話
この辺は安アパートが林立し、それらの部屋の何分の一かは妾と淫売が住んでいる。
それらの女達には子供が無く、又、各々の部屋を綺麗にするという共通の性質を持っているので、そのため管理人に喜ばれて、その私生活の乱脈さ背徳性などは問題になったことは一度もない。
アパートの半数以上は軍需工場の寮となり、そこにも女子挺身隊の集団が住んでいて、何課の誰さんの愛人だの、課長殿の本物の夫人は疎開中で戦時夫人だの、重役の二号だの、会社を休んで月給だけ貰っている妊娠中の挺身隊だのいるのである。
中にひとり五百円の妾というのが、一戸を構えていて羨望の的であった。
人殺しが商売だったという支那人がいて、この妹は仕立屋桐嶋の弟子で、その隣は指圧の先生で、その隣は仕立屋桐嶋の流れをくむその道の達人だということであり、その裏には海軍少尉がいるのだが、毎日魚を食いコーヒーを飲み缶詰を開け酒を飲み、この辺りは一尺掘ると水が出るので防空壕の作りようもないというのに、少尉だけはセメントを用いて自宅よりも立派な防空壕を持っていた。
又、羽鳥が通勤に通る道筋の木造二階建ての百貨店は戦争で商品が無く休業中だが、二階では連日賭場が開帳されており、その顔役は幾つかの国民酒場を占領して行列の人民共を睨みつけて連日泥酔していた。
羽鳥は大学を卒業すると新聞記者になり、続いて文化映画のまだ見習いで単独演出したことはないが演出家になった男で、27の年齢に比べれは裏側の人生にいくらか知識はある筈で、政治家、軍人、実業家、芸人などの内幕に多少の消息は心得ていたが、場末の小工場とアパートに取り囲まれた商店街の生態がこんなものだとは想像もしていなかった。
「戦争以来人心が荒んだせいだろう」
と羽鳥が桐嶋に訊いてみると、
「いえ、なんですよ、この辺じゃ、先からこんなものでしたねえ」
と仕立屋桐嶋は哲学者のような面持ちで静かに答えるのであった。
けれども最大の人物は羽鳥の隣人であった。
この隣人、柳瀬優は気違いだった。
相当の資産があり、わざわざ露地のどん底を選んで家を建てたのも気違いの心遣いで、泥棒ないし無用の者の侵入を極度に嫌った結果だろうと思われる。
なぜなら、露地のどん底に辿りつき、この家の門をくぐって見渡すけれども戸口というものが無いからで、見渡す限り格子のはまった窓ばかり、この家の玄関は門と正反対の裏側にあって、要するに一編ぐるりと建物を廻った上でないと辿りつくことが出来ない。
無用の侵入者は匙を投げて引き下がる仕組みであり、結局は玄関を探してうろつくうちに何者かの侵入を見破って警戒管制に入るという仕組みでもあって、隣人は浮世の俗物どもを好んでいないのだ。
この家は相当間数のある二階建てであったが、内部の仕掛けに就いては物知りの仕立屋桐嶋も多くを知らなかった。
気違いは30前後で、姉と母親があり、20そこそこの『女房』があった。
姉と母親は正気の人間の部類に属している筈だという話であったが、姉は確かに普通の婦人であったが、母親は強度のヒステリーで、配給に不服があると裸足で町会へ乗り込んでくる町内唯一の女傑であり、気違い柳瀬の『女房』は白痴でしかも男であった。
ある幸多き年のこと、気違い柳瀬が発心して白装束に身をかため四国遍路に旅立ったが、その時四国のどこかしらで白痴の男と意気投合し、遍路土産に『女房』として連れ帰ってきた。
姉は弟が気違いなので、婿養子をとっていたし、姉も母親も所詮気違いのやることと問題にしなかった。
気違い柳瀬はつり目で猫のような美男子であり、白痴の『女房』はこれも然るべき家柄の然るべき男子のような品の良さで、大きなタレ目ぎみの黒く丸い瞳が印象的で、すっと通った鼻筋、小さくぽってりとした桜色の唇に真っ白な肌のかわいらしい顔立ちで、二人並べただけでは、美しくもかわいい雛人形、それも相当教養深遠な好一対としか見受けられない。
気違い柳瀬は常に万巻の読書に疲れたような憂いのある顔をしていた。
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