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第1―3話

ある日、この露地で防空演習があってオカミさん達が活躍していると、着流し姿でゲタゲタ笑ながら見物していたのがこの男で、そのうちにわかに防空服装に着替えて現れてひとりのバケツをひったくったかと思うと、エイとか、ヤーとか、ホーホーという数種類の奇妙な声をかけて水を汲み水を投げ、梯子をかけて塀に登り、屋根の上から号令をかけ、やがて一場の訓辞の演説を始めた。 羽鳥はこの時に至って初めて柳瀬が気違いであることに気付いたので、この隣人は時々垣根から侵入してきて仕立屋桐嶋の豚小屋で残飯のバケツをぶちまけ、ついでにアヒルに石をぶつけ、全然何食わぬ顔をして鶏に餌をやりながら突然蹴飛ばしたりするのであったが、羽鳥は相当の人物と考えていたので、静かに黙礼などを取り交わしていたのであった。 だが、気違いと常人とどこが違っているというのだ。 違っているといえば、気違いの方が常人よりも本質的に慎み深いぐらいのもので、気違いは笑いたい時にゲタゲタ笑い、演説したい時に演説をやり、アヒルに石をぶつけたり、二時間ぐらい豚の顔や尻を突いていたりする。 けれども彼等は本質的に遥かに人目を怖れており、私生活の主要な部分は特別細心の注意を払って他人から絶縁しようと腐心している。 門からグルリと一廻りして玄関をつけたのもその為であり、彼等の私生活は概して物音が少なく、他に対して無用なる饒舌に乏しく、思索的なものであった。 露地の片側はアパートで羽鳥の小屋にのしかかるように年中水の流れる音と女房どもの下品な声が溢れており、姉妹の淫売が住んでいて、姉に客のある夜は妹が廊下を歩き続けており、妹に客のある時は姉が深夜の廊下を歩いている。 気違いがゲタゲタ笑うというだけで人々は別の人種だと思っていた。 白痴の『女房』は特別静かでおとなしかった。 名前は『千秋』というらしい。 千秋は何かおどおどと口の中で言うだけで、その言葉は良く聞き取れず、言葉の聞き取れる時でも意味がハッキリしなかった。 気違いの柳瀬が『女房』扱いするので、柳瀬の姉や母親が家事を教えようとするのだが、料理も、米を炊くことも知らず、それでもやらせれば出来るのかも知れないが、ヘマをやって怒られるとおどおどして益々ヘマをやるばかり、配給物を取りに行っても自身では何も出来ず、ただ立っているというだけで、みんな近所の者がしてくれるのだ。 気違いの『女房』ですもの白痴でも男でも当然、その上の欲を言ってはいけますまいと人々は言うが、母親は大の不服で、『女房』が御飯ぐらい炊けなくって、と怒っている。 それでも常はたしなみのある品の良い婆さんなのだが、何がさてひとかたならぬヒステリーで、狂いだすと気違い柳瀬以上に獰猛で3人の気違いのうち婆さんの叫喚が頭ぬけて騒がしく病的だった。 白痴の千秋は怯えてしまって、何事も無い平和な日々ですら常におどおどし、人の足音にもギクリとして、羽鳥が「やあ」と挨拶すると却ってボンヤリして立ちすくむのであった。 白痴の千秋も時々豚小屋にやって来た。 気違い柳瀬の方は我が家の如く堂々と侵入してきてアヒルに石をぶつけたり豚の頬っぺたを突き廻したりしているのだが、白痴の千秋は音もなく影の如くに逃げ込んできて、豚小屋の陰に息をひそめているのであった。 いわば此処は彼の待避所で、そういう時には大概隣家で「千秋さん、千秋さん」と呼ぶ婆さんの鳥類的な叫びが起こり、そのたびに白痴の身体はすくんだり傾いたり反響を起こし、仕方無く動き出すには虫の抵抗の動きのような長い反復があるのであった。

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