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第1―6話

千秋は不安の眼で羽鳥の顔色をうかがい布団の間へ顔をもぐらせてしまったが、羽鳥の怒らぬことを知ると、安堵のために親しさが溢れ、呆れるくらい落ち着いてしまった。 口の中でブツブツと呟くようにしか物を言わず、その呟きもこっちの訊ねることと何の関係も無いことを、ああ言い又こう言い自分自身の思い詰めたことだけをそれも至極漠然と要約して断片的に言い綴っている。 羽鳥は問わずに事情をさとり、多分叱られて思い余って逃げ込んで来たのだろうと思ったから、無益な怯えをなるべく与えぬ配慮によって質問を省略し、いつ頃どこから入ってきたかということだけを訊ねると、千秋は訳の分からぬことをあれこれブツブツ言った挙げ句、片腕を捲り上げ、かすり傷がついていたその一ヶ所を撫でて、俺、痛い、とか、今も痛む、とか、さっきも痛かった、とか、色々時間を細かく区切って言っているので、ともかく夜になってから窓から入ったことが分かった。 裸足で外を歩きまわって入ってきたから部屋を泥で汚した、ごめんなさい、という意味も言ったけれども、あれこれ無数の袋小路をうろつき廻る呟きの中から意味をまとめて判断するので、ごめんなさい、がどの道に連絡しているのだか決定的な判断は出来ないのだった。 深夜に隣人を叩き起こして怯えきった千秋を返すのもやりにくいことであり、さりとて夜が明けて千秋を返して一夜泊めたということが如何なる誤解を生み出すか、相手が気違いのことだから想像すらもつかなかった。 ままよ、羽鳥の心には奇妙な勇気が湧いてきた。 その実体は生活上の感情喪失に対する好奇心と刺激との魅力に惹かれただけのものであったが、どうにでもなるがいい、ともかくこの現実をひとつの試練と見ることが俺の生き方に必要なだけだ、白痴の千秋の一夜を保護するという目前の義務以外に何を考え何を怖れる必要も無いのだと自分自身に言いきかした。 羽鳥はこの突発千万な出来事に変に感動していることを恥ずべきことではないのだと、自分自身に言いきかせていた。 羽鳥が二つの寝床を敷き、千秋を寝かせて電灯を消して1、2分もしたかと思うと、千秋は急に起き上がり寝床を脱け出て、部屋のどこか片隅にうずくまっているらしい。 それがもし真冬でなければ羽鳥は強いて拘らず眠ったかも知れなかったが、特別寒い夜更けで、ひとり分の寝床を二人に分割しただけでも外気がじかに肌にせまり身体の震えが止まらぬぐらい冷たかった。 羽鳥が起き上がって電灯をつけると、千秋は戸口のところに襟をかき合わせてうずくまっており、まるで逃げ場を失って追い詰められた眼の色をしている。 「どうした。眠りなさい」 と羽鳥が言えば、千秋は呆気ないほどすぐ頷いて再び寝床に潜り込んだが、電気を消して1、2分もすると、又、同じように起きてしまう。 それを羽鳥が寝床へ連れ戻して、 「心配することはない。 私はあなたの身体に手を触れるようなことはしないから」 と言いきかせると、千秋は怯えた目付きをして何か言い訳じみたことを口の中でブツブツ言っているのであった。 そのまま三たび目の電気を消すと、今度は千秋はすぐ起き上がり、押し入れの戸を開けて中へ入って内側から戸を閉めた。

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