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第1―8話

千秋は羽鳥を怖れているのではなかったのだ。 まるで事態はあべこべだ。 千秋は叱られて逃げ場に窮してそれだけの理由によって来たのではない。 羽鳥の愛情を目算に入れていたのであった。 だが一体千秋が羽鳥の愛情を信じることが起こり得るような何事があったであろうか。 豚小屋の辺りや露地や路上で「やあ」と言って4、5回挨拶したぐらい、思えばすべてが唐突で全く茶番に外ならず、羽鳥の前に白痴の意志や感受性や、ともかく人間以外のものが強要されているだけだった。 電灯を消して1、2分たち羽鳥の手が千秋の身体に触れないために嫌われた自覚をいだいて、その恥ずかしさに布団を脱け出すということが、白痴の場合はそれが真実悲痛なことであるのか、羽鳥がそれを信じていいのか、これもハッキリは分からない。 ついには押し入れへ閉じこもる、それが白痴の恥辱と自卑の表現と解していいのか、それを判断する為の言葉すらも無いのだから、事態はともかく羽鳥が白痴と同格に成り下がる以外に法がない。 なまじに人間らしい分別が、なぜ必要であろうか。 白痴の心の素直さを羽鳥自身もまた、持つことが人間の恥辱であろうか。 羽鳥は思った。 俺にもこの白痴の千秋のような心、幼い、そして素直な心が何より必要だったのだ。 俺はそれをどこかへ忘れ、ただあくせくした人間共の思考の中で、薄汚く汚れ、虚妄の影を追い、ひどく疲れていただけだ。 羽鳥は千秋を寝床に寝せて、その枕元に座り、自分の子供、三ツか四ツの小さな子供を眠らせるように額の髪の毛を撫でてやると、千秋はボンヤリ眼を開けて、それがまったく幼い子供の無心さと変わるところがないのであった。 「私はあなたを嫌っているのではない。 人間の愛情の表現は決して肉体だけのものではなく、人間の最後の住みかはふるさとで、あなたはいわば常にそのふるさとの住人のようなものなのだから…」 などと羽鳥も初めは妙にしかめつらしくそんなことも言いかけてみたが、もとよりそれが通じるわけではないのだし、一体言葉が何物であろうか、何ほどの値打ちがあるのだろうか、人間の愛情すらもそれだけが真実のものだという何の証しも有り得ない、生の情熱を託すに足る真実なものが果たしてどこに有り得るのか、全ては虚妄の影だけだ。 千秋の柔らかい髪の毛を撫でていると、羽鳥は慟哭したい思いがこみ上げ、定まる影すらも無いこのとらえがたい小さな愛情が自分の一生の宿命であるような、その宿命の髪の毛を無心に撫でているような切ない思いになるのであった。

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