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第1―10話
この白痴の千秋は米を炊くことも味噌汁を作ることも知らない。
配給の行列に立っているのが精一杯で、喋ることすらも自由ではないのだ。
まるで最も薄い一枚ガラスのように喜怒哀楽の微風にすら反響し、放心と怯えの皺の間へ人の意志を受け入れ通過させているだけだ。
二百円の悪霊すらも、この魂には宿ることが出来ないのだ。
この千秋はまるで俺のために造られた悲しい人形のようではないか。
羽鳥は千秋と抱き合い、暗い荒野を飄々と風に吹かれて歩いている無限の旅路を目に描いた。
それにも拘わらず、その想念が何か突飛に感じられ、途方もない馬鹿げたことのように思われるのは、そこにもまた卑小極まる人間の殻が心の芯を蝕んでいるせいなのだろう。
そしてそれを知りながら、しかも尚、湧き出るようなこの想念と愛情の素直さが全然虚妄のものにしか感じられないのはなぜだろう。
白痴の千秋よりもあのアパートの淫売婦が、そしてどこかの貴婦人がより人間的だという何か本質的な掟があるのだろうか。
けれどもまるでその掟が厳として存在している馬鹿馬鹿しい有り様なのであった。
俺は何を怖れているのだろうか。
まるであの二百円の悪霊が―俺は今この千秋によって絶縁しようとしているのに、そのくせやはり悪霊の呪文によって縛りつけられているではないか。
怖れているのは、ただ世間の見栄だけだ。
その世間とはアパートの淫売婦だの妾だの妊娠した挺身隊だのアヒルのような鼻にかかった声を出して喚いているオカミサン達の行列会議だけのことだ。
その他に世間などはどこにもありはしないのに、そのくせこの分かりきった事実を俺は全然信じていない。
不思議な掟に怯えているのだ。
それは驚くほど短い、そして同時にそれは無限に長い一夜であった。
長い夜のまるで無限の続きだと羽鳥は思っていたのに、いつしか夜が白み、夜明けの寒気が彼の全身を感覚の無い石のように固まらせていた。
羽鳥は千秋の枕元で、ただ髪の毛を撫で続けていたのであった。
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