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第1―11話

その日から別な生活が始まった。 けれどもそれはひとつの家に白痴の肉体が増えたということの他には別でもなければ変わってすらもいなかった。 それはまるで嘘のような空々しさで、確かに羽鳥の身辺に、そして羽鳥の精神に、新たな芽生えの唯一本の穂先すら見出だすことが出来ないのだ。 その出来事の異常さをともかく理性的に納得しているというだけで、生活自体に机の置き場所が変わったほどの変化も起きてはいなかった。 羽鳥は毎朝出勤し、その留守宅の押し入れの中にひとりの白痴が残されて羽鳥の帰りを待っている。 しかも羽鳥は一歩家を出ると、もう白痴の千秋のことなどは忘れており、何かそういう出来事がもう記憶にも定かではない十年二十年前に行われていたかのような遠い気持ちがするだけだった。 戦争という奴が、不思議に健全な健忘症なのであった。 まったく戦争の驚くべき破壊力や空間の変転性という奴はたった一日が何百年の変化を起こし、一週間前の出来事が数年前の出来事に思われ、一年前の出来事などは記憶の最もどん底の下積みの底へ隔てられていた。 羽鳥の近くの道路だの工場の周囲の建物などが取り壊され町全体がただ舞い上がる埃のような疎開騒ぎをやらかしたのもつい先頃のことであり、その跡すらも片付いていないのに、それはもう一年前の騒ぎのように遠ざかり、街の様相を一変する大きな変化が二度目にそれを眺める時にはただ当然な風景でしかなくなっていた。 その健康な健忘症の雑多な欠片のひとつの中に白痴の千秋がやっぱり遠くへ押し退けられて霞んでいる。 昨日まで行列していた駅前の居酒屋の疎開跡の棒切れだの爆弾に破壊されたビルの穴だの街の焼跡だの、それらの雑多な欠片の間に挟まれて白痴の顔が転がっているだけだった。 けれども毎日警戒警報が鳴る。 時には空襲警報も鳴る。 すると羽鳥は非常に不愉快な精神状態になるのであった。 それは彼の留守宅の近いところに空襲があり知らない変化が現に起こっていないかという懸念であったが、その懸念の唯一の理由はただ千秋が取り乱して飛び出して、全てが近隣へ知れ渡っていないかという不安なのだった。 知らない変化の不安のために、羽鳥は毎日明るいうちに家へ帰ることが出来なかった。 この低俗な不安を克服し得ぬ惨めさに幾たび虚しく反抗したか、羽鳥はせめて仕立屋桐嶋に全てを打ち明けてしまいたいと思うのだったが、その卑劣さに絶望して、なぜならそれは被害の最も軽少な告白を行うことによって不安をまぎらわす惨めな手段にすぎないので、羽鳥は自分の本質が低俗な世間並にすぎないことを呪い憤るのみだった。 羽鳥には忘れ得ぬ二つの白痴の顔があった。 街角を曲がる時だの会社の階段を登る時だの電車の人ごみを脱け出る時だの計らざる随所に二つの顔をふと思い出し、そのたびに羽鳥の一切の思念が凍り、そして一瞬の逆上が絶望的に凍りついているのであった。 その顔のひとつは羽鳥が初めて白痴の肉体に触れた時の白痴の顔だ。 そしてその出来事自体はその翌日には一年昔の記憶の彼方へ遠ざけられているのであったが、ただ顔だけが切り放されて思い出されてくるのである。 その夜は静かな夜だった。 羽鳥は布団に横たわる白痴の千秋を抱き寄せた。 千秋はいつも通り口の中でブツブツと意味の無いことを言っていたが、羽鳥が額に唇を押し当てると、ふと黙った。 羽鳥は額から頬に雨のように唇を落とし、最後に唇を塞いだ。 千秋は抵抗しなかった。 抵抗どころか、羽鳥の口づけに必死に応えてくる。 羽鳥が右へ左へ角度を変えながらしつこく口づけを続けても、千秋は小さく甘い吐息を漏らし唇を重ねている。 羽鳥が舌で千秋の唇をなぞると、千秋はその小さなぽってりとした口を開いた。 羽鳥はそこから舌を差し込み歯列をなぞり口内を存分に味わってから、舌を絡めた。 千秋も直ぐに羽鳥の舌に舌を絡めてくる。 羽鳥が強弱をつけて舌を絡めながら、唾液を送り込む。 千秋はコクコクと喉をならして、羽鳥の唾液を飲み込む。 千秋がまるでもっととねだるように、それはか弱い力に過ぎなかったが、羽鳥の首に腕を廻した。 羽鳥は満足するまで千秋の唇を口内を蹂躙すると、耳を攻め首筋に吸い付いた。 千秋はもう意味不明なブツブツを言ってはいなかった。 「ぁ…あん…ん…んん…」 と人並みに小さく喘ぐ。 羽鳥の唇が胸の突起にたどり着きペロリと舐めると、「あぁッ…」と呻いて仰け反った。 羽鳥は胸の突起を舐めては吸った。 時には歯を立てた。 千秋は羽鳥の髪の毛に指を差し入れながら小さな声で喘ぎ続ける。 千秋の雄が立ち上がり蜜で濡れているのを確認すると、羽鳥はワセリンをたっぷり付けた指をまずは一本千秋の後孔にプツリと差し込んだ。 そこは確かにキツかった。 気違いの柳瀬に抱かれなくなって幾日か過ぎていたからだろう。 千秋は待ち切れないといった様子で腰を揺らし、羽鳥の指を何処かへ導こうとする。 羽鳥は逆らわず狭い蕾の中に指をうねうねと進めていった。 ある一点に触れた時、千秋が「アーッ」と小さく叫んで羽鳥の肩をぎゅっと掴んだ。 羽鳥はうっすら知識があった男でも感じる場所だと気付いた。 それから執拗にそこを擦り上げ、蕾の中がまた少し柔らかくなると、やはりワセリンを塗っていた指を足し三本一度に突き立てた。 千秋は「ああんッ…ひぃ…う、ああ…っ」と喘ぎ続け身体を震わせ続けている。 白痴の真っ赤な顔に涙が零れているのが羽鳥の目に映った。 唇も真っ赤に染まり、小さく開いた口からチラチラと舌が見えている。 羽鳥はもう我慢ならなかった。 千秋に愛撫をされたわけでも無いのに、羽鳥自身は硬くそそり勃っている。 羽鳥は自身にもワセリンを素早く塗りたくって、一気に千秋の蕾を貫いた。 羽鳥の肉棒が激しく白痴の千秋の蕾に抜き差しされる。 羽鳥は手加減などということは忘れていた。 千秋の細い腰をガッチリ固定し、千秋の足を自分の肩にかけ、奥へ奥へと突き当てる。 千秋はそのたび恥も外聞も無く嬌声を上げ喘ぎ続ける。 そのうち喘ぎ声の中に「はとりさん」とか果ては「よしゆきさん」「トリ」とかいう言葉が混じってきた。 それは途切れ途切れであったが、羽鳥は目を見開いた。 羽鳥が千秋に名前を呼ばれたのは初めてだった。 元より自分の名前を覚えるなどと考えもしていなかった。 そのうち千秋はそれしか言葉を知らないように「はとりさん」「よしゆきさん」「トリ」だけを喘ぎながら繰り返すようになった。 羽鳥は頭に血が上り興奮した。 感動とも違う何かが羽鳥の胸を締め付けた。 羽鳥はその夜、朝になるまで千秋を抱き続けた。 千秋の身体は敏感で快楽を強く欲していて、羽鳥はその身体を貪るように抱いた。 前からは勿論後ろからも抱き、千秋の真っ白な小振りの尻に羽鳥の指跡がついた。 千秋の全身は羽鳥の口づけや噛み跡で赤く染まっていた。 千秋も羽鳥も何度絶頂を迎えたか分からなくなった頃、千秋は気を失った。 羽鳥は火鉢に乗せて置いた大きめのヤカンのお湯を水で薄めて適温にすると、千秋の身体を綺麗に拭いてやった。 後孔からも自分が放った白濁を掻き出してやった。 それでも千秋はピクリとも動かなかった。 羽鳥は最後に千秋の顔を見た。 冬の早朝の薄い明かりに照らされた白痴の千秋の顔は涙の跡が幾筋も残っていた。 それでいて満ち足りていて放心していて尚、無垢なのであった。

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