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第1―12話
その日から白痴の千秋はただ待ち望んでいる肉体であるにすぎず、その他の何の生活も、ただひと切れの考えすらもないのであった。
常にただ待ち望んでいた。
羽鳥の手が千秋の身体の一部に触れるというだけで、千秋の意識する全部のことは肉体の行為であり、そして身体も、そして顔も、ただ待ち望んでいるのみであった。
驚くべきことに、深夜、羽鳥の手が千秋に触れるというだけで、深い眠りにある肉体が同一の反応を起こし、肉体のみは常に生き、ただ待ち望んでいるのである。
眠りながらも!
けれども、目覚めている千秋の頭に何事が考えられているかと言えば、元々ただの空虚であり、在るものはただ魂の昏睡と、そして生きている肉体のみではないか。
目覚めた時も魂は眠り、眠った時もその肉体は目覚めている。
在るものはただ無自覚な肉欲のみ。
それはあらゆる時間に目覚め、虫のごとき巻きつく反応の蠢動を起こす肉体であるにすぎない。
もうひとつの顔、それは折りから羽鳥の休みの日であったが、白昼遠からぬ地区に二時間にわたる爆撃があり、防空壕を持たない羽鳥と千秋は共に押し入れに潜り布団を楯に隠れていた。
爆撃は羽鳥の家から4、500メートル離れた地区へ集中したが、地軸もろとも家は揺れ、爆撃の音と同時に呼吸も思念も中絶する。
同じように落ちてくる爆弾でも焼夷弾と爆弾では凄みに於いて青大将と蝮ぐらいの相違があり、焼夷弾にはガラガラという特別不気味な音響が仕掛けてあっても地上の爆発音が無いのだから音は頭上でスウと消え失せ、竜頭蛇尾とはこのことで、蛇尾どころか全然尻尾が無くなるのだから、決定的な恐怖感に欠けている。
けれども爆弾という奴は、落下音こそ小さく低いが、ザアという雨降りの音のようなただ一本の棒を引き、こいつが最後に地軸もろとも引き裂くような爆発音を起こすのだから、ただ一本の棒にこもった充実した凄味といったら論外で、ズドズドズドと爆発の足が近づく時の絶望的な恐怖ときては額面通りに生きた心地が無いのである。
おまけに飛行機の高度が高いので、ブンブンという頭上通過の敵機の音も至極かすかに何食わぬ風に響いていて、それはまるでよそ見をしている怪物に大きな斧で殴りつけられるようなものだ。
攻撃する相手の様子が不確かだから爆音の唸りの変な遠さが甚だ不安であるところへ、そこからザアと雨降りの棒一本の落下音が伸びてくる、爆発を待つ間の恐怖、まったくこいつは言葉も思念も止まる。
いよいよ今度はお陀仏だという絶望が発狂寸前の冷たさで生きて光っているだけだ。
羽鳥の小屋は幸い四方がアパートだの気違い柳瀬だの仕立屋桐嶋などの二階屋で取り囲まれていたので、近隣の家は窓ガラスが割れ屋根が傷んだ家もあったが、彼の小屋のみガラスにひびすらも入らなかった。
ただ豚小屋の前の畑に血だらけの防空頭巾が落ちてきたばかりであった。
押し入れの中で、羽鳥の目だけが光っていた。
彼は見た。
白痴の顔を。
虚空を掴むその絶望の苦悶を。
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