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第1―14話

それは4月15日であった。 その二日前、13日に、東京では二度目の夜間大空襲があり、池袋だの巣鴨だの山手方面に被害があったが、たまたまその罹災証明が手に入ったので、羽鳥は埼玉へ買い出しに出掛け、いくらかの米をリュックに背負って帰ってきた。 羽鳥が家に着くと同時に警戒警報が鳴り出した。 次の東京の空襲がこの街あたりだろうということは、焼け残りの地域を考えれば誰にも想像のつくことで、早ければ明日、遅くとも一ヶ月とはかからないこの街の運命の日が近づいている。 早ければ明日と考えたのは、これまでの空襲の速度、編隊夜間爆撃の準備期間の間隔が早くて明日ぐらいであったからで、この日がその日になろうとは羽鳥は予想していなかった。 それ故買い出しにも出掛けたので、買い出しと言っても目的は他にもあり、この農家は羽鳥の学生時代に縁故のあった家であり、彼は二つのトランクとリュックに詰めた物品を預けることがむしろ主要な目的であった。 羽鳥は疲れ切っていた。 旅装は防空服装でもあったから、リュックを枕にそのまま部屋の真ん中にひっくり返って、彼は実際この差し迫った時間にうとうとと眠ってしまった。 ふと目が覚めると諸方のラジオはがんがんがなり立てており、編隊の先頭はもう伊豆南端に迫り、伊豆南端を通過した。 同時に空襲警報が鳴り出した。 いよいよこの街の最後の日だ、羽鳥は直感した。 白痴を押し入れの中に入れ、羽鳥はタオルをぶら下げ歯ブラシをくわえて井戸端へ出掛けたが、羽鳥はその数日前にメーカー物の練歯磨を手に入れ長い間忘れていた練歯磨の口中に染み渡る爽快さを懐かしんでいたので、運命の日を直感するとどういうわけだか歯を磨き顔を洗う気になったが、第一にその練歯磨が当然あるべき場所からほんのちょっと動いていただけで長い時間、それは実に長い時間に思われたが見当たらず、ようやくそれを見付けると今度は石鹸、この石鹸も芳香のある昔の化粧石鹸がこれもちょっと場所が動いただけで長い時間見当たらず、ああ俺は慌てているな、落ち着け、落ち着け、頭を戸棚にぶつけたり机につまずいたり、そのために羽鳥は暫時の間一切の動きと思念を中絶させて精神統一をはかろうとするが、身体自体が本能的に慌て出して滑り動いて行くのである。 ようやく石鹸を見つけ出して井戸端へ出ると仕立て屋桐嶋と一番弟子の横澤隆史が畑の隅の防空壕へ荷物を投げ込んでおり、アヒルによく似た屋根裏の娘が荷物をぶら下げてうろうろしていた。 羽鳥はともかく練歯磨と石鹸を断念せずに突き止めた執拗さを祝福し、果たしてこの夜の運命はどうなるのだろうと思った。 まだ顔を拭き終わらぬうちに高射砲が鳴りはじめ、頭を上げると、もう頭上に十何本の照空燈が入り乱れて真上を指して騒いでおり、光芒の真ん中に敵機がぽっかり浮いている。 続いて一機、また一機、ふと目を下方へ落としたら、もう駅前の方角が火の海になっていた。 いよいよ来た。 事態がハッキリすると羽鳥はようやく落ち着いた。 防空頭巾を被り布団を被って軒先に立ち24機まで羽鳥は数えた。 ポッカリ光芒の真ん中に浮いて、みんな頭上を通過している。 高射砲の音だけが気が違ったように鳴り続け、爆撃の音は一向に起こらない。 25機を数える時から例のガラガラとガードの上を貨物列車が駆け去る時のような焼夷弾の落下音が鳴りはじめたが、羽鳥の頭上を通り越して、後方の工場地帯へ集中されているらしい。 軒先からは見えないので豚小屋の前まで行って後ろを見ると、工場地帯は火の海で、呆れたことには、今まで頭上を通過していた飛行機と正反対の方向からも次々と敵機が来て後方一帯に爆撃を加えているのだ。 するともうラジオは止まり、空一面は赤々と厚い煙の幕に隠れて、敵機の姿も照空燈の光芒も全く視界から失われてしまった。 北方の一角を残して四方は火の海となり、その火の海が次第に近づいていた。

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