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第1―15話

仕立屋桐嶋と一番弟子の横澤は用心深い人達で、常から防空壕を荷物用に造ってあり目張りも泥も用意しておき、万事手順通りに防空壕に荷物を詰め込み目張りを塗り、その又上へ畑の土もかけ終わっていた。 「この火じゃとても駄目ですね」 仕立屋桐嶋は昔の火消しの装束で腕組みをして火の手を眺めていた。 「消せったって、これじゃ無理だ。 私はもう逃げますよ。 煙に巻かれて死んでみても始まらない」 桐嶋はリヤカーにも一山の荷物を積み込んでおり、 「先生、一緒に引き上げましょう」 そう言う桐嶋に 「僕はね」 と羽鳥は言いかけ、その時騒々しいほど複雑な恐怖感に襲われた。 彼の身体は桐嶋と一緒に滑り出しかけているのであったが、身体の動きを振り切るようなひとつの心の抵抗で滑りを止めると、心の中の一角から張り裂けるような悲鳴の声が同時に起こったような気持ちがした。 この一瞬の遅延のために焼けて死ぬ、羽鳥は殆ど恐怖のために放心したが、再びともかく自然によろめき出すような身体の滑りを堪えていた。 羽鳥は言葉を続けた。 「僕はね、ともかく、もうちょっと、残りますよ。 僕はね、仕事があるのだ。 僕はね、ともかく映画人だから、命のとことんの所で自分の姿を見つめ得るような機会には、そのとことんの所で最後の取引をしてみることを要求されているのだ。 僕は逃げたいが、逃げられないのだ。 この機会を逃すわけに行かないのだ。 もうあなた方は逃げて下さい。 早く、早く。 一瞬が全てを手遅れにしてしまう」 早く、早く。 一瞬が全てを手遅れに。 全てとは、それは羽鳥自身の命のことだ。 早く早く。 それは桐嶋を急き立てる声ではなくて、羽鳥自身が一瞬も早く逃げたい為の声だった。 羽鳥がこの場所を逃げ出すためには、あたりの人々がみんな立ち去った後でなければならないのだ。 さもなければ、白痴の姿を見られてしまう。 「じゃ先生、お大事に」 リヤカーを引っ張り出すと仕立屋桐嶋も一番弟子の横澤も慌てていた。 リヤカーは露地の角々にぶつかりながら立ち去った。 それがこの露地の住人達の最後に逃げ去る姿であった。 岩を洗う怒濤の無限の音のような、屋根を打つ高射砲の無数の破片の無限の落下の音のような、休止と高低の何もないザアザアという不気味な音が無限に連続しているのだが、それが府道を流れている避難民達のひとかたまりの足音なのだ。 高射砲の音などはもう間が抜けて、足音の流れの中に奇妙な命が込もっていた。 この高低と休止のない奇怪な音の無限の流れを世のなんびとが足音と判断し得よう。 天地はただ無数の音響でいっぱいだった。 敵機の爆音、高射砲、落下音、爆発の音響、足音、屋根を打つ弾片、けれども宇佐見の身辺の何十メートルかの周囲だけは赤い天地の真ん中で、ともかく小さな闇を作り全然ひっそりしているのだった。 変てこな静寂の厚みと、気の違いそうな孤独の厚みがとっぷり四方を包んでいる。 もう30秒、もう10秒だけ、待とう。 なぜ、そして、誰が命令しているのだか、どうしてそれに従わなければならないのだか、羽鳥は気違いになりそうだった。 突然、悶え、泣き喚いて盲目的に走り出しそうだった。 その時鼓膜の中を掻き回すような落下音が頭の真上に落ちてきた。 夢中に伏せると、頭上で音響は突然消え失せ、嘘のような静寂が再び四方に戻っている。 やれやれ、脅かしやがる、羽鳥はゆっくり起き上がって、胸や膝の土を払った。 頭を上げると、気違い柳瀬の家が火を吹いている。 何だい、とうとう落ちたか、羽鳥は妙に落ち着いていた。 気がつくと、その左右の家も、すぐ目の前のアパートも火を吹き出しているのだ。 羽鳥は家の中へ飛び込んだ。 押し入れの戸をはね飛ばして、実際それは外れて飛んでバタバタと倒れ、白痴の千秋を抱くように布団を被って走り出た。 それから一分間ぐらいのことが全然夢中で分からなかった。 露地の出口に近づいた時、又、音響が頭上めがけて落ちてきた。 伏せから起き上がると、露地の出口の煙草屋も火を吹き、向かいの家では戸を開け放した仏壇の中から火が吹き出しているのが見えた。 露地を出て振り返ると、仕立屋桐嶋の家も火を吹きはじめ、どうやら羽鳥の小屋も燃えはじめているようだった。 四方は全く火の海で府道の上には避難民の姿も少なく、火の粉が飛び交い舞い狂っているばかり、もう駄目だと羽鳥は思った。 十字路へ来ると、ここから大変な混雑で、あらゆる人々がただ一方を目指している。 その方向が一番火の手が遠いのだ。 そこはもう道ではなくて、人間と荷物と悲鳴の重なりあった流れにすぎず、押し合いへし合い突き進み踏み越え押し流され、落下音が頭上に迫ると流れは一時に地上に伏して不思議にぴったり止まってしまい何人かの男だけが流れの上を踏みつけて駆け去るのだが、流れの大半の人々は荷物と子供と女と老人の連れがあり、呼び交わし、立ち止まり、戻り、突き当たり、はね飛ばされ、そして火の手はすぐ道の左右に迫っていた。

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