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第1―17話

川を上がると、麦畑があった。 麦畑は三方丘に囲まれて、三町四方ぐらいの広さがあり、その真ん中を国道が丘を切り開いて通っている。 丘の上の住宅は燃えており、麦畑のふちの銭湯と工場と寺院と何かが燃えており、その各々の火の色が、白、赤、橙、青、濃淡とりどりみんな違っているのである。 にわかに風が吹き出して、ごうごうと空気が鳴り、霧のような細かい水滴が一面に降りかかってきた。 群集は尚延々と国道を流れていた。 麦畑に休んでいるのは数百人で、延々たる国道の群集に比べれば物の数ではないのであった。 麦畑の続きに雑木林の丘があった。 その丘の林の中には殆ど人がいなかった。 二人は木立の下へ布団を敷いて寝転んだ。 丘の下の畑のふちに一軒の農家が燃えており、水をかけている数人の人の姿が見える。 その裏手に井戸があってひとりの男がポンプをガチャガチャやり水を飲んでいるのである。 それを目掛けて畑の四方からたちまち20人ぐらい老若男女が駆け集まってきた。 彼等はポンプをガチャガチャやり代わる代わる水を飲んでいるのである。 それから燃え落ちようとする家の火に手をかざして、ぐるりと並んで暖をとり、崩れ落ちる火の塊に飛びのいたり、煙に顔を背けたり、話をしたりしている。 誰も消火に手伝う者はいなかった。 「眠くなった」と千秋が言い、俺疲れた、とか、俺眠い、とか、足が痛い、とか、目も痛い、とか、色々呟き、それらの呟きの三つの中のひとつぐらいに俺眠りたい、と言うのであった。 「眠るがいいさ」と羽鳥は千秋を布団にくるんでやり、彼は煙草に火をつけた。 そして何本目かの煙草を吸っているうちに、遠く彼方にかすかに解除の警報が鳴り、数人の巡査が麦畑の中を歩いて解除を知らせて廻ってきた。 彼等の声は一様に潰れ、人間の声のようでは無かった。 蒲田署管内の者は集まれ、矢坂国民学校が焼け残ったから、そこへ集まれ、とふれている。 人々が畑のうねから起き上がり国道へ下りて歩きはじめる。 国道は再び人の波だった。 しかし、羽鳥は動かなかった。 彼の前にも巡査が来た。 「その人は何かね。怪我をしたのかね」 「いいえ、疲れて、寝ているんです」 「矢坂国民学校を知っているかね」 「ええ、一休みして、後から行きます」 「勇気をだしたまえ。これしきのことに」 巡査の声はもう続かなかった。 巡査の姿は消え去り、雑木林の中にはとうとう二人の人間だけが残された。 二人の人間だけが―けれども千秋はやはりひとつのただの肉塊にすぎないではないか。 千秋はぐっすり眠っていた。 全ての人々が今焼け跡の煙の中を歩いている。 全ての人々が家を失い、そして、みんな歩いている。 眠りのことを考えてすらいないであろう。 今眠ることが出来るのは、死んだ人間と、この千秋だけだ。 死んだ人間は再び目覚めることがないが、この千秋はやがて目覚め、そして目覚めることによって、眠りこけた肉塊に何物を付け加えることも有り得ないのだ。 千秋はかすかではあるが今まで聞き覚えのない鼾声を立てていた。 それは豚の鳴き声に似ていた。 まったくこの千秋自体が豚そのものだと羽鳥は思った。 そして彼は子供の頃の小さな記憶の断片をふと思い出した。 ひとりの餓鬼大将の命令で十何人かの子供達が子豚を追い回していた。 追い詰めて、餓鬼大将はジャックナイフでいくらかの豚の尻肉を切り取った。 豚は痛そうな顔もせず、特別の鳴き声も立て無かった。 尻の肉を切り取られたことも知らないように、ただ逃げまわっているだけだった。 羽鳥は敵が上陸して重砲弾が八方に唸りコンクリートのビルが吹き飛び、頭上に敵機が急降下して機銃掃射を加える下で、土煙りと崩れたビルと穴の間を転げまわって逃げ歩いている自分と千秋のことを考えていた。 崩れたコンクリートの陰で、千秋がひとりの男に押さえつけられ、男は千秋をねじ倒して、肉体の行為に耽りながら、男は千秋の尻の肉をむしりとって食べている。 千秋の尻の肉は段々少なくなるが、千秋は肉欲のことを考えているだけだった。

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