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第2話
◇◇
玄関のドアを開けて、一度家の中に入ってしまえば、寒いくらいにクーラーが効いていて、外との温度差に戸惑ってしまう。
靴を脱ぎ、荷物を自室に置いて、シャワーでも浴びようかと洗面所へ行こうとして、リビングから物音が聞こえてくるのに気付いた。
ガチャリ、と閉じたリビングのドアを開ければ、途端にふわりと美味しそうな匂いが鼻腔をつく。
この匂いはカレーかな、なんて思いながら、キッチンの方を覗いてみれば、エプロンを付けて何かを炒めていたらしい母さんが、「おかえり」と声をかけてくる。
「…うん、ただいま。……それ、カレー?」
「そうよ。雅彦 さんが今日はカレーの気分だって言ってたから、本当は魚を焼こうと思ってたけど、やめたの」
「…やっぱり。父さん、良く飽きないよな」
父は、三度の飯よりカレーが好きだと言いのけるくらい、カレーが大の好物らしい。
そういうわけで、今日みたいに父の気分で夕食がカレーになることは、多々ある。
今週だって、父の気まぐれにもう二度も付き合わされている。
またか、なんて内心少しうんざりしていると、母さんが不意に炒め物の手を止めて、あっと声を上げた。
「そうそう、言い忘れてたけど」
「…なに?」
「明日から、雅彦さんと一泊二日の旅行に行ってくるから。留守番、頼んだわよ」
「明日?……分かった」
別に、父さん達が二人きりで泊りがけの旅行に行くことは、そう珍しいことじゃない。
素直に頷いた俺に、母さんはにやりと笑って、声のトーンを落とし、ひそっと囁くように言う。
「折角邪魔者がいないんだから、…彼女連れ込んだりとか、してもいいのよ?」
「っしねーよ。というか…彼女いないし」
「え、あの子は?ほら、目がくりくりで、元気いっぱいの女の子。一回家に連れてきたじゃないの」
「あー、…瑠衣 のこと?それならもう、とっくのとうに別れて……って、母さんには関係ないだろ」
「えー…だって、気になるじゃないの。息子の恋愛事情」
「ああもう、ほっといてくれよ。……俺、シャワー浴びてくるから」
なおも喋り続ける母さんに背を向けて、逃げるように洗面所に飛び込み、ガチャリと鍵をかける。
母さんの好奇心には、本当に参ってしまう。
瑠衣なんて一度、しかも短時間しか家に連れ込んでないのに、何で覚えてるんだよ。
じんわりと汗で汚れた衣服を剥ぐようにして身体から取り、洗濯機に突っ込む。
その勢いのままに浴室に駆け込み、ぬるい水を全身に浴びれば、汗やら汚れやらが一気に落ちていくのが分かって、「あぁ、気持ちいい」なんて、おじさん口調の言葉が漏れる。
さっぱりしたからだろうか、頭を洗おうとして……ふと、母さんの言葉が脳裏に蘇る。
『…彼女連れ込んだりとか、してもいいのよ?』
「……」
彼女という言葉に誘発されたのか分からないが、良かったと呟いた先程の臼田の顔が、はと脳裏に浮かぶ。
頰を林檎色に染めて、瞳をきらきら輝かせて、心底嬉しそうに笑って。
あの臼田は、可愛かった。
くらりと、眩暈さえ覚えるほど。
…もしかして、臼田だったらーー抱けるかもしれない。
この際、彼女の代わりに臼田を抱いて、一夏の恋を楽しむというのも、いいのかも…。
「ーーって、何考えてんだよ」
臼田は、男なんだ。
一瞬でも抱きたいなんて思ってしまった自分に、かっと顔が熱くなる。
きっと、暑さのせいで身も精神もおかしくなっているんだ。
こんなことを考えてしまったのも、…変に胸がざわざわするのも。…全部、暑さのせい。
俺はそう無理矢理結論づけて、変な考えを払拭するべく、軽く頭を振る。
けれど、一度頭の中に蘇った臼田の笑顔は、中々消えてくれないのだった。
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