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第3話
『オレの野菜ジュースがない』
朝のニュース番組を見ていたが、静樹の耳に彼の言葉は届いていた。
だが、その後に続く言葉は投げられず、振り向いてみれば、狭いキッチンに立ったままぼんやりとトーストを齧っている。
(……野菜ジュースね。賞味期限三日も過ぎてたけどな)
一緒に暮らしている恋人は、あれこれといい加減だ。一緒に買い物に行っても、静樹の持つカゴに商品を次々に入れてくるが、冷蔵庫に入れた途端満足して忘れてしまうらしい。
その悪癖を直してもらわないと。
静樹が、買い物をした食材が冷蔵庫に入る隙間がないと何度か諭してみたが、彼はその愛らしい笑顔でごめんごめんと謝るだけだ。
忘れ去られた悲しき野菜ジュースは、八割がた静樹が飲むことになる。賞味期限が切れてからだが。
同棲し始めた頃は、何度か声をかけていた。
これ明日で賞味期限くるぞ。今飲んだら?
だが、彼は冷蔵庫に目も向けずに、うん後で。と言って終わりだ。
(自分が忘れて賞味期限も切れてやがんのに。オレのがないとか言うんだよな)
久し振りに口にした煙草に、唇が苦く汚されていく気がする。
昔は食後にこれがなければ生きていけないなんて、考えていた事もあったのに。
(………まっず、……)
職場の喫煙所は驚くほど狭い。昨今喫煙者は外で喫煙できる場所を失ってるが、社内でもそうらしい。ここ数年口していなかったせいで、職場の喫煙所に入ったのは初めてだった。
汚れた銀色をした縦長の灰皿。音だけが派手な換気扇のせいで、波打っていた胸は少し落ち着いた。
『なぁ、……た、煙草やめたらキスの味とか…、か、変わんのかな』
今でも鮮やかに思い出せる。由人がそれを口にしたのは付き合い始めた翌日だ。
静樹は彼の意図が読めなくて、大学の校舎の済で黙って彼の瞳を見つめていた。
少し色素の薄いその瞳は、太陽の光で甘い茶色に見える。髪も生まれつき明るい色をしているらしく、染めてはないと言っていた。
『…なに、どういう意味』
静樹の言葉に、彼の白い頬がゆっくりと桜色を滲ませていった。
男にしては長い睫毛を震わせ、沈黙の後に俯いて何も無いと彼は言った。
静樹は足を後方へと引きながら、由人の腕を掴み引き寄せた。
『……わ、っ』
前のめりに静樹の胸に密着した彼の顎を掴み、唇を合わせた。それだけではわからないだろうと、舌先で彼の唇くすぐってやると素直に口を開きそれを差し出してきた。
遠慮がちに絡む舌が可愛いなんて感じたのは、初めてだった。
『俺のキス、苦い?でもお前も吸ってんだし、わかんねぇだろ』
『……だ、だからほら、二人でやめるのは?……静樹が嫌じゃなければだけど』
そう話す由人の小さな口から赤い舌がちらりと見えた。
禁煙なんて考えた事もなかったくせに、静樹は由人の言葉に頷いた。
「……くそ、」
込み上げてきた苛立ちを消すように、煙草を灰皿に押し付けた。
付き合い始めてすぐに、由人が行きつけだと言ったバーには行くなと言った。
わかったと言った時の由人は、少し嬉しそうだった。過去へのみっともない嫉妬や束縛なのに、なんの反論もせずに。
(隠れて行くくらいなら最初から約束なんかすんなよ)
嘘をつかれた。裏切られた。そんな大袈裟なものじゃないとは理解していても、どうしても許せない。
由人と同じ性癖を持った男だけが集まる場所で酒を飲むなんて。浮気なんて器用な事は出来ない奴だとは思っているが、それでも言い訳を聞いてやれないほど腹が立っている。
同棲を始めてもうすぐ二年。
未だ身体は繋げていない。
そのことに関して、言いたそうにしているのに何も言わない彼は、もういいと見切りをつけ始めているのだろうか。
抱きたくない訳じゃない。同性相手に勃起するだろうかなんて杞憂は、由人からの告白の前には解決していたのだから。
見た目が愛らしいから、と言うのももちろんあるが、何より酒に酔ってボロボロと泣きながら別れた男の事を話している彼が、単純に可愛かったのだ。
長い睫毛も、赤い頬も涙で濡れていた。凄く凄く好きだったのに。あんなにも好きだって言ってくれたのに。なのにふられちゃった。丸ごと晒した彼は静樹の腕にしがみついて泣いていた。
名前も何も知らないその相手の男を、羨ましいと思った。おそらくその時にはもう由人に惚れていたのだろう。
明るく笑顔の耐えない由人。その可愛らしい笑顔で手に入れたものを閉じ込めて忘れてしまう愛しい恋人。
「あれ?檜山静樹。早い出勤ね」
自分の席で椅子の背もたれに体重を預けていた静樹は、かけられた声にうたた寝していたことを知った。
「……おはようございます」
「…………え、もしかして、あんた昨日帰ってないの?」
「一度帰ったんですけど、……って、いや、」
睡眠不足で寝ぼけているせいで、頭がうまく動かない。自分の発言が制御出来ないのは気持ち悪い。
「ははぁん。彼女と喧嘩したんでしょ。あんたね、いくら上司との飲みでもたまには断っていいのよ。ほかのメンバーはあんたが狙いだからしつこいけどさ。次は私から話しておくから、たまには早く帰って相手してあげなさいよ」
相手にされていないのはこっちの方だ。そんな軽率な言葉すら口から逃げていきそうで、静樹は強く唇を閉じた。
「ってか、散らかさないでよ。飲みは解放してあげるけど、仕事はきっちりこなしなさいよ、新人」
静樹の面倒を見てくれている上司は、穏やかそうに見えてかなりキツイ。とりあえず仕事は終わらせなければ。由人との事はそれからだ。
そう自分に言い聞かせてみたが、今日は一日、冷蔵庫に忘れ去られていた賞味期限切れの野菜ジュースが頭から離れそうになかった。
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