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第4話
箸を持つ手がだるい。
空腹なはずなのに食べる気がしなくて、由人はすぐにその箸をテーブルに置いた。
「ちょっと。せめて一口くらい食べなさいよ」
母は傷心の息子を睨むと、小さな口を開き揚げ物にかぶりついた。
「……母ちゃんが食ってるの見るだけで腹一杯……」
「あのねぇ、もう三日よ?そろそろ帰れば?出ていく時あんなに自慢してたくせに」
相談もせずに家を出て行った事を未だに口にする母は、正直面倒くさい。
「ホント、面倒くさい子なんだから」
同じ事を考えていただけに反論しかけたが、由人は口を閉じてテーブルから離れた。
ついたままのテレビの前に寝転ぶと、母の愛猫が由人の腹の上に乗りあがってきた。
真っ黒な毛並みを撫でてやると素直に喉を鳴らし、もっと撫でてと耳を下げている。
「どうせあんたが静樹君を怒らせたんでしょ」
「んな事ねーもん」
「都合悪いから理由も話さないくせに」
「ち、……」
違うとは言えない。約束を破ったのは由人だ。
「……由人。いい加減にしないと本気で捨てられるわよ」
脳が反射的にその後の言葉を拒否するようだ。由人の耳にはテレビから流れる音声が響き、母の言葉がその影に消されていく。
「って、聞いてる?」
「聞いてるけど、母ちゃんにはわかんないだろ」
「わかんないわよ、あんたがちゃんと話さないから」
「…………そ、そんな、話せる事と話せない事があるじゃん」
「話せないって言うならさっさと帰りなさいよ。あんた達の痴話喧嘩に母ちゃんを巻き込まないでよね」
「息子に向かって冷たくねぇ……?」
「何言ってるのよ、勝手に出てって都合のいい時にだけ帰ってこられちゃ迷惑なの。完全に別れたって言うなら別だけど」
聞き流したくても流せないその言葉に由人の心臓が跳ね上がった。それはすぐに全身に拡がり由人を落ち着かなくさせてしまう。
目を細めていた猫は、止まってしまった由人の指先を舐めた。
ざらりとしたその舌は冷たく温度を下げる由人に、動けと示している。
(もし謝っても許してくれなかったら…どうしたらいい……?別れたいって…言われたら……)
最悪の事態を予測した由人の脳裏に浮かび上がるいくつかの終わりの場面。
何度か経験したそれは、どれも辛く悲しかった。その別れの殆どは、由人が男だからという理由だったが、また同じ事を言われるのだろうか。
それを避けたくて、女性よりも可愛らしく淫らに振る舞ったこともある。実際に女よりもいいと言ってくれた相手もいた。
けれどそれは、ありのままの由人の姿ではない。
(……セックスしないで別れるって……初めてだな……)
母の愛猫は由人の冷たい指先に撫でられて満足そうに目を細めている。
抱いて欲しかった。それは嘘じゃない。それでも心のどこかで期待はあった。
身体だけじゃない証拠なんじゃないかと。由人が何故セックスはしないのかと聞いた時に、それがなくてもお前といたいだけだと、聞かせて貰えるんじゃないか。
どう答えて貰いたいのか、由人自身にも分からない。だけど、彼の本音は聞いてみたい。
好きだから怖くて、好きだから臆病になり過ぎている。
(……こんなの初めてなんだけど。静樹はどうなんだろう…)
もし彼が本当に外で性欲を発散しているのなら、この関係を終わらせなければいけないだろう。
由人は猫の小さな頭を手のひらで包み撫でた後、少し出てくるからと実家を後にした。
「ほんで?なんでここにおるんかな~由人クンは~」
隣に座る汐月は拳を由人の頬に押し付けてきた。
「いたた、やめてよ、汐月君」
「ケリつけに行くのにここに来てるとかアホなん?アホやろ」
「……だって、怖いじゃん…、あ、それに静樹まだ仕事終わってないだろうし」
真っ直ぐに自宅に戻る勇気がなくて、少しだけと開店直後のバーに寄ってみたのだが、思いがけず汐月に出くわしてしまった。
「ふぅん……まぁ、めんどくさーい由人クンの事はどうでもええねんけど」
「オレは面倒くさくない」
「まだ言うんか。あんなぁ、充分面倒くさいんやで。もしかして、なんで彼氏がそこまで怒ったんかわかってへんのちゃうか?」
そう言った汐月はグラスの中身を一度に飲み干してしまった。
今夜は顔を合わすなり眉を寄せていたし、機嫌が悪いのかもしれない。
「わ、わかってるよ。オレが……約束破ったから…」
「せやで。自分の知らん同じホモな男と仲良う飲んでるからやん」
「……ん?」
「ん?やないわ!恋人がよその男に手ぇ出されたりしてんちゃうかってオコなんやろが!」
勢いよくグラスをカウンターに置いた彼は、由人の胸元を掴み捲し立ててきた。強く匂うそれはかなりの飲酒を思わせる。
「ちょ、っと待って、汐月君、もしかして凄く酔ってる?」
「今はそんな話してるんちゃうやろ、ちゃんと聞けや!セックスなしでも一緒におりたいんやって、早うゆーてこんかい!」
そう叫んだ汐月が詰め寄ってきたせいで、バランスを崩しゆっくりと後方へ倒れていく。
腰掛けていた椅子は少し高さがあり、このまま二人で倒れれば無傷ではいられないだろう。カウンターの中からマスターが手を伸ばそうとしているのが視界に入ったが、間に合わないだろうと感じた。
酔った汐月を庇うように抱き締め、背中に受けるだろう衝撃に強く目を閉じたが、それは訪れなかった。
あれ、と背中を包む何かに気がついて目を開くと、そこには静樹の顔があった。
「……せ、」
「打ってないか?」
汐月を抱く由人ごと抱き起こした静樹に思わず素直に頷くと、彼は財布から取り出した紙幣をカウンターに置いた。
「ほら、帰るぞ。……離れろ」
身を預けていた汐月はやはりかなり酔っていたようで、静樹に押しやられるとカウンターにぐったりと突っ伏していた。
「え、あの、ま、マスター、」
老年の彼は汐月の肩に手を置くと、小さく親指を立てて見せた。
分厚い扉の向こうに彼が消える前に、由人は唇だけで礼を伝えた。
向きを変え目を向けた先には、スーツ姿の静樹が歩いている。彼のその姿が好きだ。凛々しく働く彼は見蕩れるほどに素敵だろう。出来るなら勤務中の彼の姿を一日眺めていたいと考えた事もある。
だが、今はそんな時じゃない。
由人は強く掴まれていた手首に気がついた。
彼はその長い足で引き摺るように歩き、真っ直ぐに自宅に向かっている。
「……せ、静樹、仕事、」
「黙ってろ」
振り向かずにかけられた言葉は冷たかった。
感情の起伏が分かりにくい彼だが、由人にはその温度が分かる。
込み上げる悲しさに、やはり実家にいれば良かったと後悔した。
待っているのが別れの場面なら、いっその事逃げていれば良かった。
こうして手を掴まれているだけでも確信できるほど彼が好きなのに。
与えられる高鳴りはもうすぐ由人に終わりを突きつけてくるのだろう。
(……やだ、嫌だ……っ、)
自宅に着くまでの間、由人は静樹のスーツの背中に別れたくないと繰り返し呟いていた。
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