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第5話

数日ぶりに足を踏み入れた玄関は、懐かしい匂いがした。 短期間この部屋を離れていただけでもう思い出になってしまった気がする。 なんとか涙をこらえていたのに、靴を脱ぎながら声を上げそうになった由人は、拳を強く握りしめた。 「……実家にいたんだな」 由人から手を離した静樹は、ネクタイを抜きながらソファに座った。 彼は足を組まずに身体をソファに預けている。疲れた様子に、申し訳なくなってしまった。 「立ってないで座れよ」 「……ぁ、うん。……静樹、俺んちに行ったの…?」 しんとした空間が気まずくてそう聞くと、あぁと返事をした彼が大きなため息をついた。 「……前にも言ったと思うけど。俺、お前の母さん苦手なんだよ」 「あ、な、何か言われた?って言うか、もしかしてさっき行った?」 「お前が家を出てすぐ。お前なぁ、親だからってなんでも話すのやめろよ……いや、今はその話じゃないな」 誤魔化せるのならこのままいつもと同じ様に会話を続けていたかった。その考えを見抜かれてしまった気がして、由人は視線を落とした。 小さなソファでは端に腰掛けても膝が触れそうだ。彼とそうしたくて選んだものなのに、今はこの近さが辛い。 「……由人、今日お前があそこにいたってことはもう答えは出たんだな?」 問われて初めて、また失敗した事を自覚した。 「え、こ、答えって……」 「お前の中ではもう別れた事になってるんだろ」 彼の口から出た言葉は予想していたものだ。それなのに突きつけられてしまうと、もう悲しくて声が出せなくなる。 ちゃんと話さないと。過去の別れのように、物分りのいい男でいれば簡単に彼を失ってしまう。 「……今日のは新しい相手か?」 「ち、違う!」 相手の負担になりたくないと、別れ際まで自分を隠していた。だけど、それは本当の自分じゃない。 「あれは、し、汐月君って言って、単に顔見知りだし、会った時にちょっと話すくらいで、仕事も歳もちゃんと知らないしそんなんじゃ、お、俺は静樹だけだもん!言ったじゃん、最初に!浮気とか嫌だし、ホモだからってゆるいとか軽いとか思われんのすっげー嫌いだって話しただろ、お、俺、だから俺……っ、」 口から出る言葉は彼に聞かせたかったものじゃない。なのに制御出来ずに溢れてしまい、結局はポロポロと涙まで零れ始めた。 みっともない。こんな姿を彼に見られたくなかった。飽きられてしまうと怖くなったが、俯いてしまった由人の肩は静樹の腕に優しく抱き寄せられた。 「分かったから落ち着け。……お前いつも慌て過ぎ」 その声と触れ方は優しかった。それだけでなく、静樹は由人の頭に唇を寄せている。 「……せ、静樹、お、俺、俺っ、」 涙だけでなく、鼻が詰まってしまい上手く息が吸えない。そのせいで言葉まで出て来ない情けない状態だったが、静樹はティッシュを数枚手渡してくれた。 「……由人、俺が好きか?」 由人は鼻をティッシュで押さえたまま、顔を上げた。 静樹は苦しそうに眉を寄せている。それは傷つき悲しみを映していた。自分だけが辛いだなんて、何故思えたのだろう。 きっと、彼も悩み苦しんでいたはずだ。 「…………き、好き…、静樹が好き……!」 腕を伸ばして身を寄せると、彼も同じ様に抱き締めてくれた。 「わ、別れたくない、お願い、俺…、静樹といたい……」 どうしても失いたくない。その想いから出た言葉ごと受け止めるように、静樹の腕が強く由人を包んだ。 返事はなくてもわかる。彼の腕は逃がさないと語るように由人を腕に閉じ込めていた。 安心したせいで涙が止まらない。さすがに気持ち悪いと思われてしまいそうで気になっていたが、静樹が新しいティッシュで由人の鼻を拭いてくれた。 「ご、ごめ、汚いから、い、いいからっ、」 泣き過ぎてしゃくり上げ、それを受け取ろうとしたが彼は渡さずに丁寧に拭いてくれた。 (……やばい、優しいの嬉しくてまた泣く…) 凛々しい彼の瞳が、ふわりと細められた。優しく笑った静樹の顔が近くなる。 重なる唇に、由人は言葉にならない幸せを噛み締めた。 いつもと変わらない朝。 由人はテレビから流れるニュースを聞きながら焼きあがったトーストにバターを塗っていた。 「由人、」 隣から声をかけられ顔を上げると、紙パックの野菜ジュースが口元に差し出された。それには既にストローが刺されていて、由人は素直に口を開いた。 「賞味期限、ギリだな」 間近で微笑んだ彼は朝から殺人的にその魅力を発揮していて、由人は胸を撃ち抜かれたように息苦しくなった。思わずストローから口を離すと、惚けたその唇に軽くキスをした静樹がストローをくわえ、テレビの方へと行ってしまった。 (俺の飲みかけの野菜ジュース……!) ソファに座った彼は由人の野菜ジュースを一気に飲み干したらしく、残りが吸われていく音が聞こえていた。 泣きながら別れたくないと告げたあの夜から、静樹の態度はかなり甘くなっている。 相変わらず言葉では聞けていないが、それを補う態度のお陰で、由人は更に彼に夢中になっていた。 実際のところ、由人が思うよりも彼に想われていたようだった。 汐月に言われた通り、同性を性対象に見る中に一人で行かれるのは不愉快だと聞かされた由人は、本当にもう行かないと彼に言った。だが、静樹は行きたい時は素直に言えと話して由人を驚かせた。 自分が気を許せるお気に入りの場所で飲みたい気持ちは理解出来る。だから、次からは同行すると宣言されたのだ。 それには本気で驚いた。付き合って欲しいと由人が告白した時に、承諾された時と同様の驚きだった。 (……俺…、あ、愛されてる……!) 徳用サイズの蜂蜜の入ったチューブを手に感動を反芻していると、トーストはまだかと催促された。 「お前、蜂蜜かけすぎだろ」 トーストから垂れた蜂蜜が指についたらしく、彼の赤い舌が指についた蜜を舐め取っていた。 何気ない光景のはずなのに、その仕草に由人の下腹がぞくりと揺れてしまう。 「……ん?」 「や、な、何もっ、」 人間とは贅沢なもので、セックスなんか出来なくてもいいから彼のそばにいたいと願っていたのに、それが叶うとなるとあっさり欲望が膨らんでしまう。 「んだよ、顔赤いぞ。調子悪いのか?」 額を合わせて熱を測るなんてベタな行為にも、口から心臓が飛び出しそうなほど意識してしまうし、身体は素直に反応してしまう。 「……熱はないな」 純粋に気遣ってくれている静樹に申し訳ないほど、由人の全身は煩悩で一杯だ。 目の前で見る彼の凛々しい顔立ちにうっとりとしていると、口元だけで薄く笑った彼が優しくキスをしてくれた。 「……見とれ過ぎ」 叫びたくなるほどの恋人の格好良さに、由人は更に頬を赤くするしか出来なかった。

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