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第6話

目の前にある木の扉は、その色で重厚さを醸し出しているようだ。 由人が初めてこの扉の前に立った時も、今と同じような気持ちだった。 この扉を開けば、夢に描いたような新たな世界が待っている。 期待と不安の入り混じる気持ちは由人の足に疼きを与えていたが、同時に酷く重く感じた事を覚えている。 何度もネットで調べた。口コミの情報しか拾えなかったが、この店はゲイ初心者には良店だと書かれていたのだから大丈夫。言い聞かせるように何度も立ち尽くしたまま頭の中で繰り返していた。 (懐かしいな……なかなか俺が中に入らないもんだから後ろから声かけられたんだっけ) 扉を前に懐かしい記憶を味わっていたが、聞こえた声に現実に引き戻された。 「由人、入らないのか?」 耳元で名前を呼ばれ、響いた低い声に思わず変な声が出てしまった。 「何驚いてるんだよ、さっさと入れよ」 振り向いた先には、大好きな凛々しい顔が間近にあった。 少し冷たそうに見える程整った顔立ちは、今でも見惚れてしまう。 (俺も……いつになったら慣れるんだかな) 「……由人、ここでしていいのか?」 言われて初めて、静樹の唇が寄せられてい事に気が付いた。 「な、なに、」 行きつけのゲイバーの前とはいえ、往来でするものじゃない。ごくプライベートな行為なのだから。一瞬にして由人の頭の中に複雑に絡み合った感情が渦巻いたが、考えてしまった。 こんな場所で強引にキスをされてしまいたい。 するはずのない彼だからこそ。 静樹は慌てる由人から視線を外さないまま、焦げ茶色をした扉に手をついた。 彼と扉に挟まれる形になった由人は驚き過ぎて声が出なかったが、その隙をついてキスをされた。触れるだけだったそのキスは、離れ際可愛いらしい音を立てた。 「せっ、静樹っ、」 「お前がして欲しいそうな顔したから」 「しっ、てないって、してたとしても外なのにっ」 「……嫌だったのか?」 そう呟いた彼の瞳は、いつもと変わらず感情が読み取りにくい。 (あ、でも…。何だろう、) 嫌だったのかと問うその眉がしゅんとしたように見える。 思わず手を伸ばしかけたが、静樹の向こうから見知った顔が見えて再び驚いた。 「自分ら、店の扉塞いで何やっとんねん」 「しっ、汐月くん!」 いつ会っても愛らしい瞳をしていた汐月が、見たことの無い形相でそこにいた。 彼は静樹と由人に体当たりをして扉の前から移動させると、改めてこちらを睨んできた。 「ゆーとくけどな、店の中でイチャコラするんやったら蹴飛ばすで」 「し、しないよそんな、」 由人の言葉を無視するように、フン!と顔を逸らした汐月は先に入ってしまった。 閉まりかけた扉を手で押さえ先に静樹を中へと促したが、彼の手が由人の腰に回され抱かれてしまった。そのままエスコートするように店内に入ったが、された事の無い触れ方に足が上手く動かない。 (夢?これ夢?こここここ、腰抱かれてるよ、俺っ!) 「由人、どこに座ればいいんだ?」 「えっ、え、と、」 恋人と来たのならテーブル席へ。この店にはそんな暗黙のルールがあるが、由人はそこに座った事は一度しかない。 入口からは先にカウンター席が視界に入る。そこには先程とはうって変わり、可愛い笑顔を浮かべる汐月が見えたが、彼の隣にいるスーツ姿に目を見開いた。 「……け、いすけさん……」 予想外の人物の姿を見つけたせいで名前を呟いてしまった。 「…知り合いか?」 知り合いには違いない。ここは素直にそうだと答える方が良いだろうと静樹の顔を見上げた瞬間、低くよく通る声に名前を呼ばれた。 「由人くん、」 汐月の向こうから優しげな笑顔でこちらに手を上げた彼に、つられて手を振ってしまった。 カウンターの椅子から立ち上がり、長い足を優雅に運ぶ彼は、相変わらず魅力的だった。 「久し振り。ついさっき汐月君から聞かされたよ。初めての恋人同伴だってね」 「……ぅ、は、はい…」 絶妙な気まずさは経験したことの無い感覚で、笑えばいいのかも分からない。 「ふふ、緊張し過ぎ。初めまして、伊谷圭介です。一応、ここのオーナーをしています」 質のいいスーツの生地は柔らかな店内の照明に照らされ、彼の魅力を際立たせているようだ。 「え?圭介さんってこのバーの経営者なの?」 圭介は静樹と握手を交わしたあと、そのしなやかで長い指を唇の前に立てて小さく笑った。 「由人くん、知ってる人は少ないから秘密だよ」 「あっ、ごめんなさい」 「で、恋人くんのお名前は?」 「……檜山です」 「よろしく、檜山君。由人くん、一番奥の席へどうぞ」 示された席は他の席からは見えにくく、半個室のように作られた席だ。 そこはいつも少し特殊な、由人から見ても一般人とは違うレベルの人種が座っている事を知っていた。 「え、いいんですか?」 「勿論。由人くんが恋人を連れてきてくれたからね」 いつだったか、由人がいつもの様に一人で飲みにきた時、恋人同士らしい二人が奥の席で肩を寄せ合い飲んでいるところを見たことがあった。 一人は体格のいい強面の男性だったが、隣に座る男性が正反対の印象だったせいでよく記憶している。眼鏡をかけた細身の男性は一見すると女性のような柔らかな雰囲気があった。 対照的な二人なのに、とても幸せそうに微笑み合い、互いを見つめていた。 いつか、いつか自分も。 そんな風に感じたのはいつだっただろう。 「ゲイバーってこういうルールみたいなのあるのが当たり前なのか?」 店の扉と同じ、焦げ茶色をした革のソファは見た目よりも手触りがよく柔らかだ。 背もたれに後頭部を乗せた静樹は、どこか疲れたように見える。 「え?いや、俺もわかんない。ここしか来たことないし」 「……この席はカップル専用?」 「この席って言うか……。テーブル席が基本そうなんだ。一人飲みの人はカウンター席でさ、この店は本当に静かにお酒を楽しむって感じの所だから」 「……へぇ」 静樹の声がいつもより低い。 彼は何故か一番遠いカウンターを見つめている。 カウンターには汐月と圭介が飲んでいたが、明らかに汐月は圭介に密着している。 「お待たせしました。これはオーナーからお二人へのプレゼントです」 由人がずっと経営者だと思っていたマスターが、ワインとグラスを運んできてくれた。 「プレゼント……って、」 「どうぞ、ごゆっくり。素敵な夜を」 老齢のマスターは優しく微笑んでくれたが、静樹には会わせたくなかった人物の登場のせいで、高価なワインの味は由人の舌には馴染まなかった。

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