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第8話
職場であるホームセンターの休憩室は、全て長机にパイプ椅子だ。
初めて足を踏み入れた時から、せめてクッション性のある椅子に変えて欲しいと常々思っていたが、ここ数日の由人はそんな事を考える余裕もなく脳内は慌ただしかった。
紙パックの野菜ジュースのストローを噛みながら、深夜の玄関で彼の手に翻弄された事を思い出していた。
久し振りに静樹の大きな手に触れられて、本当に嬉しかった。
(めっちゃ気持ち良かった……)
セックスはまだでも、過去にも何度も彼と触りあって射精する行為はしている。だが、あの夜の彼の触れ方は、それまでのものとは何かが違っていた。
(なんかこう……強引さもありつつ…、優しく気遣ってくれて……耳元で囁かれたりエロくて…っ、ほんっとにヤバかった!)
こうして思い出しては顔を赤くして、また少し考え込んでしまうのだ。
恋人と行きつけのバーで美味しいワインを飲んで、触って気持ちよくしてもらえた。
最高な一日だったと思う。けれど、あの夜静樹は由人に触らせてくれなかった。
由人が見た印象では、間違いなく彼も勃起していた。後ろから押さえつけられている時も、由人の尻に固いものが当たっていたから間違いはないだろう。
俺はいい。
彼はそう言った。その言い方には含みがあるような気がして、由人の頭の中をぐるぐると回っている。
(……アレからなんかまた…静樹の様子おかしい気がするんだよな……)
何となく。程度に感じるもので、断定は出来ないが。
「小畑っちさぁ」
少し離れたパイプ椅子に座っていたバイトの女の子に呼ばれ、ストローを噛んだまま顔を向けた。
「……それやめなよ、ストロー噛むのギョーギ悪くね?」
そう言う君はどうなんだろう。と由人は言いそうになったが、バイトに来始めてもう半年も経過する彼女とは、そんなやり取りもやり合い慣れたものだ。
「美夜子ちゃんもね。マニキュアは禁止されてないけど、その派手な爪はダメって店長に言われてたでしょうに」
「え〜、でも今日はお客さんに可愛いねって褒められたし」
大学生バイトの彼女は、特に派手でもないごく普通に女性に見えるのだが、話してみると今どきの若者という感じがする。
ね、可愛いでしょ、と手の甲を向けて見せられたが、派手なオレンジをベースに飾られた爪を見ても特に何も思わない。
「あー、うん、そうだね〜」
「絶対思ってないし。二面性ゲイめ」
「ほんっと、口悪いよね、美夜子ちゃん。俺一応社員だし目上の人間なんだけど」
「その目上の人間に初っ端から、ゲイ宣言されたんですけどぉ」
「……え、なに、ヤダった?…気持ち悪かったんならごめん」
思わずパイプ椅子の上で尻の位置をずらし彼女に真っ直ぐに向くと、艶々とした髪を揺らして睨まれた。
「違うっしょ。そうじゃなくてさ。イキナリ言われて、拒否られたりしたら小畑っちが嫌な気持ちになるじゃんって言ってんの。結構あからさまにする奴もいるんだからさ。もう少し相手んこと見てから言った方がいいっていう忠告なだけ」
そう言った彼女は、お先っした。と休憩室を出て行った。
確かに、由人は隠している事が面倒だとさっさと性癖を晒しがちだが、美夜子の言うように不快感を出す人間もいる。
軽く宣言したからと言って拒否されればそれなりに気にするし、落ち込んでしまうのも事実だ。
(でもなんか黙ってるのもやなんだよね〜)
オープンにしていたお陰で静樹ともきっきけができて親密になれたのだから。
そう思うとやはり悪い様な気はしなかったが、歯型がついて汚くなったストローを見て少し反省はした。
そろそろお開きに。
居酒屋でやっと解散の流れになり、静樹は携帯を見た。
仕事を上がるなり、職場の面子にたまには参加しろと引き摺られ、かろうじて今夜は飲んで帰ると恋人に連絡はしたのだが、その後返信すら見る隙を与えられなかった。
由人からは、了解という可愛い猫のスタンプと、気をつけてねと言うメッセージが届いていた。
(……早く帰りてぇ)
一時期落ち込んでいた静樹に気がついた先輩が飲み会は免除にしてくれていたのだが、たまにはと今夜は連れて行かれてしまったのだ。
同棲丸二年近くなって今更だが、最近は殊更恋人が可愛らしくて仕方ない。
「ほら、檜山!解放してあげるからさっさと帰ってやりなさいよぉ〜」
すっかり酔っ払った先輩は、居酒屋の前で静樹の腕に絡まり振り回してくる。
「ちょっ、先輩、危ない!人に当たりますからやめてくださいって、わ、」
予想通り通行人に当たってしまい、すみません、と頭を下げたが相手の足が目の前で止まって視線を上げた。
「檜山静樹くん。こんばんは」
そこには夜の歓楽街で映える、独特の雰囲気を持った圭介が立っていた。
「……あ、」
「え!めっちゃ、イケメン!誰?檜山の知り合い?紹介してよ!」
「初めまして〜、檜山の上司です〜」
圭介と向かい合った瞬間に後方から先輩や上司達が押し寄せ、口々に話し出した。
「す、すみません、ちょっと、みんな飲み過ぎなんだからいい加減にしてください」
「いや、構わないよ。皆さん美しい方ばかりだ。いい職場で働いてるんだね」
優しく微笑むその姿は魅力的で、歓楽街には不似合いな爽やかさを見せているのに、不思議とその裏に艶が見える。
「……や、やだ、本当に素敵な方じゃない」
上司達がこぞって差し出した名刺も、嫌な顔一つせずに受け取った圭介に、静樹は感心していた。
アルコールの入った彼女達の相手はいつも心身ともに疲れてしまうのに、圭介は僅かに微笑むだけで制御しきっているように見える。
彼女達は圭介に名刺を渡し終えると、素直にタクシー乗り場に向かって行った。
(……すげぇ。酔っ払い女達があっさり帰った)
帰宅方向が同じ面子同士を纏めてタクシーに乗せるだけでも一苦労なのに、と驚いていると、今度は静樹にニッコリと笑顔を向けてきた。
「……檜山君、一杯だけ付き合ってくれないかな」
たった今酔っ払った上司達が迷惑をかけたところで、嫌だと帰ることは出来ない。
静樹は躊躇したが、顔には出さずに少しならと了承した。
てっきりあのゲイバーに向かうのだと思っていたのに、彼に連れて来られたのは同じ歓楽街にあるごく普通のキャバクラだった。
(これは……)
これは避けたかった。下手にきつい香水の移り香をつけて帰れば、また由人が気にするかもしれないと考えたからだ。
「大丈夫だよ、客席じゃない所だから」
何も話していないのに、と疑ったが彼は店内に入ってすぐにある四席ほどしかないカウンターに座り、隣に座るように促してきた。
「この席はね、ここの経営者がいつも座る場所だから、誰も寄りつかないんだ」
「……はぁ」
一体何が言いたいんだと思いつつ背の高いスツールに座ると、キャストらしき派手なドレスの女性が圭介に近寄ってきた。
「圭介さん、この間は本当にありがとう」
「あぁ、もう店に出られるようになったんだね。良かった」
彼は光の粒子を纏ったような笑顔で、優しく女性の頬を指先で撫でた。
その仕草ひとつで、相手の女性は濃いチークが霞んでしまいそうなほど顔を赤くして、うっとりとしている。
「……あの、わ、私…どうすれば……」
「何も気にしなくていいよ。俺は好きで動いただけだから」
ね、と微笑み首を傾げた圭介は、女性が立ち去るのを見送ってからこちらに向いた。
「ビールの方がいいかな?」
「あ、はい」
飲み物が置かれると、圭介はグラスを取りお疲れ様、と静樹と同じビールを飲んだ。
静樹も軽く頭を下げて一口だけ飲み込んだが、何故彼に誘われたのかわからなくて落ち着かない。
「……この間のワインもかなり飲んでいたのに平気そうだったよね。お酒は強いほうかな」
「えぇ、まぁ。……あ、先日はご馳走様でした」
彼の言葉に思い出して礼を口にすると、彼は長い指で口を押さえてクスクスと笑い出してしまった。
何か変なことを言ったのだろうか。と彼を見ていると、視線に気がついた圭介は、ごめんね、と謝りグラスに口をつけた。
「この間バーで会った時に、汐月君から君たちの話を少し聞いたんだよ。……聞かされた話の君とはかなり印象が違って驚いた」
汐月。と聞いて頭には癖の強い髪をした子供のような青年が頭に浮かんだ。
「……あのクルクルから何を聞いたんですか」
「は、はは、クルクルって髪のこと?」
楽しそうに笑う圭介に頷いた静樹は、グラスの中身を飲み干した。
「あの、俺、早く帰りたいんすけど」
汐月から何をどう聞いていても、自分には関係ない。それよりも早く帰って彼と他愛ない話をして夜を過ごしたかった。
「………うん、君が俺に向けていた敵意はかなりのものだったから、それが気になったんだ。……もしかして、由人君から何か聞いたのかな」
楽しげに笑っていた圭介の柔らかさがすっと隠れた瞬間、背筋が震える程の艶を感じた。
彼はセンスのいいスーツ姿で背の高いスツールに座り、丁寧に磨かれているのだろう美しいカウンターテーブルに肘をついて静樹を見た。
改めて彼の姿を捉えてみて、纏う雰囲気だけではない何か濃いものを感じた静樹は、何故ビールを飲み干してしまったのだろうと考えた。
喉が渇く。黒いはずの彼の瞳の中に隠された色を見た気がした。
「……何も聞いてません。思いはしましたけど、胸クソ悪い話は聞きたくないので」
カサついた喉は声を出すと咳が出そうになった。
「君はいい目をするね。読めなさそうで読みやすい。……由人君が初めての恋人なのかな。でも君程の男前なら、周囲の女の子達が放っておかないだろうから……。あれかな?本気の相手が初めてって感じかな」
限界を感じた静樹は、立ち上がり鞄を手にした。
「誘ったのは貴方なので、金はいいですよね」
「勿論。聞きたいことがあればいつでも相談に乗るよ」
差し出されたのは名刺らしきものだったが、静樹はそれを受け取らずに美しく整った顔を睨んでいた。
「いつか役に立てるだろうから」
彼はそう言うと鞄の外ポケットに名刺を差し入れた。
口を開けば咳とともに汚い言葉が溢れてしまいそうで、静樹は強く口を噤んだまま足早に店を出た。
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