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第9話
携帯に表示された、恋人からのメッセージ。
なるべく早く帰るから。
その一言が嬉しくて何度も見返していた。
すれ違いがあって家出までしたけれど、あの喧嘩はやはり意味があったんだと、由人は感慨深く思い出していた。
今までならば、職場の飲み会で遅くなるという連絡事項のみのメッセージだったのに、仲直りをしてからは彼の気持ちがメッセージに込められるようになった。
なるべく早く帰る。という事は、早く帰りたいと言うことだろう。と、由人が勝手に都合良く捉えているのだが。
物事は何でも前向きに捉える方がいいに決まっている。
静樹のように誰もが見蕩れるほどの男前にそう思って貰えるなんて、自分は本当に幸せ者だ。こうして恋人の帰宅を待つのも、同棲ならではの醍醐味なのだから。
見上げた時計は10時を過ぎたところ。いくら早く帰るとメッセージが来ていても、過剰な期待はしない方がいい。
(静樹の職場の女上司達…、すっごい酒に強いって話してたもんな……)
酔ってもあまり顔に出ない静樹は飲まされやすいらしく、去年の忘年会では珍しく帰宅するなり床にスーツを脱ぎ散らかして寝てしまっていた。
実はかなり綺麗好きで、熱があっても必ず風呂には入る。そんな彼がシャワーもしないで寝てしまうというのは、異常事態と言ってもいいくらいだった。
由人はそんな事を思い出しながら、先に風呂も済ませて、缶チューハイを飲みつつバラエティ番組をぼんやりと見ていた。
眺めてはいても頭の中は彼でいっぱいだし、CMの度にメッセージを見ている。
(あ、もう空か)
二本目を開けるかどうか、悩む所だ。由人は酒には強い方ではない。二本も開けてしまえば、静樹が帰宅した時にちゃんとおかえりが言えないかもしれない。
(……そ、それに…、出来たらちょっと…触りっこしたい……)
そう、実はムラムラとしている。帰宅した時に彼の機嫌が良さそうで、上手く甘えられたらまた触ってもらえるかもしれない。
彼も多少は酔っているだろうし、初めて話をしたあの居酒屋の時のように、優しく目を細めて相手をしてくれるかもしれない。
空き缶をキッチンに持っていき、これで終わりにしようと決意していると、玄関の鍵を開ける音が聞こえてきた。
(早い!…って事は、あんまり酔ってないよね?)
慌てて狭い玄関まで移動すると、ビジネスシューズを脱いでいる静樹がいた。
「お、おかえり」
「……ただいま」
疲れたような雰囲気だったが、静樹は由人の頭を大きな手で撫でてくれた。
「かっ、鞄!」
我ながら新妻のような事をしていると思ってしまったが、彼は素直に重い鞄を手渡してきた。
「結構早かったな。もう少し遅いかと思った」
玄関にいる静樹に背を向け、鞄を胸にリビングに向いて足を出した由人の目が、それを見つけてしまった。
黒い鞄の外ポケット。可愛らしい淡いピンク色の紙がそこからはみ出ている。
「時間は早いけど、先輩達は見事にべろべろだった。女の酒飲みとかマジで無理だな」
「へ、へぇ、そんなに凄いんだ?」
静樹は話しながら洗面所へ向かった。彼の話す声が遠くなる。
やめておくべきだ。頭の片隅で誰かが叫んでいる。由人もそれは理解している。
「乾杯すら待てねぇんだぜ、あの人ら。あの会社入ったら絶対に女嫌いになると思う」
「あ〜、うちのバイトの女の子も凄くキツイ子いてるよ」
由人の指がそっとピンクの紙の端を掴んだ。
するりと外へ引き出されたそれは、封筒だった。女の子特有の丸みを帯びた文字で、「檜山くん」と宛名が書かれている。
「ネイルが派手だって話してた子?」
「そ、そう…………美夜子ちゃんっていうんだ……」
ほら、見ない方が良かったじゃないか。だから言ったのに。もう一人の自分が涙ぐみながら叱っている。
せめて見なかったことに、なんて出来るわけがないのに由人はそれを外ポケットの奥へ押し込んだ。
「……しと、由人?」
「あ、え、うん、何?」
「……俺の鞄がどうかしたのか?」
静樹は知らぬ間にスーツの上着を脱いでネクタイも抜いていた。
リビングに立ったままだった由人は、何も無いよと彼の鞄を定位置に置いたが、後ろから彼に抱き締められて息を詰めた。
「……せ、静樹…?」
期待していた通り、少し酔っているのかもしれない。
「なにか誤魔化しただろ」
「…べっ、つに、なにも……」
密着していると動揺は伝わりやすいものだ。
後ろから由人の顔を覗き込む彼の仕草に、胸がぎゅうと締め付けられてしまう。
「………本当に?」
静樹の声がいつもより低く聴こえる気がして振り向こうと顔を動かせると、唇を重ねられた。
たった今彼へのラブレターらしきものを発見して落ち込んだはずなのに、特別な行為に簡単に満たされてしまう。
「…ん、」
誘う様に甘い声を出すと、すぐに彼の舌が口腔に滑り込んできた。
舌の愛撫とともに、ふわりとアルコールの香りが漂う。これは自分のものなのか、彼のものなのか。どちらか分からないような状況だと言うだけで、由人の股間は反応してしまいそうだ。
「……んっ、……ふ、ぅ、」
唇が離れそうになると、由人の顎は静樹の手に掴まれた。直後に深く押し込まれる舌に、期待した股間が温度を上げた。
(……気持ちいい…、キス最高…もっと…、触って欲しい…)
自分だけじゃなく、やはり由人も彼に触れたい。今夜は互いに触れ合いたい。
由人は絡めた舌が解けないように、彼の腕の中で体を反転させた。
向かい合い彼の背中に手を回すと、強く抱き締めてくれた。
酔っているせいなのか、彼のキスと抱擁がいつもより激しい気がする。
もしかしたら、由人を抱きたいと思ってくれているのかもしれない。
(……オレ……もういい加減抱いて欲しい…)
身体で相手を取り込もうとしていた当時は、セックスなんて出来なくてもいいと考えていた。愛して貰えるなら、心の繋がりだけで十分だと。だけど、所詮それは綺麗事だ。愛するからこそ彼に触れたいし、触れて欲しい。お前が欲しいと求められたい。
由人の股間はもう完全に熱くなっていた。重なる舌先でも彼に伝わるかもしれないと思う程に、全身が彼を求めて熱を上げている。
本能のままに彼の背中に当てていた手をゆっくりと下ろし、自分よりも逞しい腰を撫でた。
口腔を舐めていた彼の舌の動きは止まったが、動く手は止められなかった。
今夜は触れられる。その嬉しさで大胆に彼の股間に手を滑らせた。
スーツのパンツの生地は、その下に潜む固さをしっかりと由人の手に伝えてきた。
(嬉しい…、凄く硬くなってる…)
「……っ、由人、」
「…ね、ねぇ、静樹も……オレの、」
触れて欲しくて彼の手を取ったが、それは振り払われてしまった。
「……悪い、由人。………無理、」
そういった直後、彼は逃げる様に浴室へと向かってしまった。
(え?)
置いていかれてしまった由人は、何が起きたのか理解出来ずに立ったまま呆然とした。
「……無理?……って、なに……」
繰り返してみた言葉が自分の声で発せられ、それが耳に入ってやっと状況を理解した。
だが、勃起させていた彼が何故そう言ったのかは分からない。
キスをしてきたのは彼で、優しく抱き締めてきたのも彼だ。
激しく舌を愛撫して、明らかに性感を高めたのは彼からなのに、何故無理だと謝られたのだろう。
(……悪い、って……なに?)
その謝罪の意味は、由人の胸に冷たく落ちていったが、辿り着く先は見えなかった。
由人は痛む胸に手を当てて大きく呼吸を繰り返し、涙がこぼれ落ちないように顔を上にあげた。
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