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第10話

郵便局から勢い良く飛び出した由人は、通行人に当たりそうになり、避けながらすみませんと謝った。 上司からは言付かった用事ついでに休憩も済ませて来いと言われたのだが、素直に従った自分は馬鹿だったようだ。 取った番号札は待ち人数も少なくて油断していたが、その番号はなかなか進まず結局休憩時間いっぱいかかってしまったのだ。 (なんか人も多いしな、って。アレか……月末だからか…) 職場であるホームセンターのポロシャツは、安い造りのせいなのか通気性が悪く蒸してしまう。 由人は走りながら職場近くのコンビニでおにぎりを一つだけ買うと、大急ぎで戻った。 急げばそのくらいは食べる時間があるかもしれない。休憩室に飛び込み一番手前のパイプ椅子に座り、おにぎりのフィルムを乱暴に剥した。 「…なんでそんなに慌ててんすか」 休憩室の奥の方に座っていた美夜子に気がついていなかった由人は、驚いて喉を詰まらせた。 「あー、はいはい。驚かせちゃってごめんなさい。どーぞ」 置かれた野菜ジュースのパックから、真っ赤なネイルが離れていく。 「またそんな派手な爪…」 「いいから、飲み物ないんしょ。恵んであげるから飲めば?見てて息苦しい。てゆーか、ゆっくり食えばいいのに」 「時間ないんだって。休憩時間オーバーしたらまた店長に睨まれんじゃん」 「睨まれてんの小畑っちだけじゃね?」 ボソリと呟かれた言葉に反応すると、彼女はカラコンで薄いブラウンになった瞳を細めた。 「はは、本当に幸せなゲイだよね〜。別に休憩時間多少オーバーしても言われたことないけど」 「え…そうなの……?」 「先にフロア戻るし、適当に言っておくからちゃんと噛んで食べたら?…顔色悪くてキモイから。15分は座ってなよ」 美夜子は由人と目を合わさずにそう言うと、さっさと休憩室を出ていってしまった。 言葉は乱暴で態度は冷たいが、本当に優しいいい子だなぁ、と口の中のおにぎりをゆっくりと噛んだ。 彼女が置いていってくれた野菜ジュースは、由人がいつも避けるものだ。 このメーカーが一番安いのだが、野菜の主張が強くて飲みにくい。 【また賞味期限ギリギリまで忘れるんじゃねぇの?】 買い物カゴにいつもの野菜ジュースを買い置きの分と多めに入れると、静樹はいつもそう言って凛々しい瞳を細めて見せていた。 ちゃんと飲むってば。そう言いながら、鬱陶しいなぁなんて思っていた事もある。 母ちゃんみたいに細かい事言うのやめてくれないかな、なんて腹を立てたりしていたけど。 そんな風に会話ができること自体が幸せだったのかもしれない。 野菜ジュースに貼り付けられたストローを剥がし、薄いフィルムに当てて刺した。 久しぶりに飲むそれは、やはり野菜の味が強くて飲みにくい。 【野菜の味がするから野菜ジュースなんだろ?…変な奴】 そういった時の彼は、笑っていた気がする。 仕方ないな。不愉快そうにしていても、由人をそうやって受け止めてくれていた。 自分はノーマルなのに、ゲイバーにも付き合ってくれて。嫉妬なんて見せてくれて。 「……うぇ、…まず……」 間違いなく好かれていると確信していたのに、あれだけの事で全てが見えなくなってしまった。 あの夜。無理だと言った彼の声は、どこか苦しそうだった。 嫌悪感を押さえきれないほど嫌だったのだろう。あの声を思い出す度にじわりと涙が滲んでしまう。 (みっともない!すぐに泣いちゃダメだ!) ストローから口を離して手の甲で目元を擦ってみたが、それは止まるどころか溢れ続けてしまい、結局は美夜子の言う通り15分オーバーの休憩時間になってしまった。 ついていない時は仕事までミスをして、プライベートもズタズタになる。なんていうベタな流れはよくドラマで見るものだ。 どうせならとことん落ちた方が、考える時間も増えていいのかもしれないのに。 そう考えていた静樹は、得意先を出てため息をついた。 プライベートは思い通りにいかず、自宅に帰る度に居心地の悪い思いをしている。寝不足で頭は回らないし、上司にも目つきが悪いと文句を言われているのに、何故か仕事だけは上手く回っていて忙しかった。 昼からもあちこちと得意先を回らなけらばならず、腕時計を見た静樹は昼食をどうしようかと思案した。 食欲はない。空腹感はあるが食べても美味いと感じなくて、食事をする事が億劫になっている。 (……コンビニで済ますか) 丁度駅の近辺を歩いていて、コンビニならばあちこちにある。 近くにある大きな公園には多数のベンチがあり、同じようなスーツ姿のサラリーマンがそこで昼食をとっているのを目にしていた。 静樹の歩く方向には郵便局が見える。その先にあるコンビニで何か買って食べようと歩いていると、郵便局から飛び出してきた男が目に入った。 くすんだオレンジ色のポロシャツには見覚えがある。由人の勤務先であるホームセンターの制服だと気付いたが、それが由人本人だと理解した瞬間に思わず走り出しそうになった。 彼は急いでいるようで、ぶつかりそうになった通行人に頭を下げ、静樹とは反対の方向に走って行ってしまった。 彼の職場は駅を挟んで反対側だ。 まさか会えるとは思っていなかったせいなのか、妙に心臓が跳ねて落ち着かない。 (……なんなんだよ、) 偶然姿を見た。それは素直に嬉しいと感じている。なのに、同時に湧き上がるこの感情はなんだろうか。 (あ〜、クソ。キモイ……) 自分の心の中が纏まらなくて気持ちが悪い。そして、こんな状態は初めてだと考える度に、歓楽街の夜を纏う男から言われた言葉思い出し、更に嫌な気分になるのだ。 本気の相手は初めてなのか。 何故それが分かってしまったのだろう。初対面同然の相手に一番知られたくない場所を引き摺り出され、過去最高に気分が悪かった。 下手をすれば殴っていただろう。 静樹にとっては不愉快しか感じない相手だが、由人の初めての相手なのかもしれなくて、それも不愉快の原因だった。 あの夜、彼は圭介の名刺が入った鞄を玄関で受け取り、明らかに外ポケットになにか見つけたようだった。間違いなくそれは彼の名刺だったはずだ。だからこそ静樹は、どうしたと問いかけたのだが、由人は何も無いとしか言わなかった。 彼の口から、圭介を想っていたという話を聞きたい訳では無い。ましてや、初体験の話なんて。ならば、何を言わせたかったんだと考えてみても自分でもよく分からなかった。 ただ、潤んだ瞳をするあの淫らな表情を知っているのは自分だけじゃないと肌で感じた瞬間、静樹の身体は恐ろしい程の衝撃を感じたのだ。 獰猛な感情が込み上げ、思わず彼に向かって無理だなんて言ってしまった。 あの一言が彼を傷つけたことは間違いなくて、あれから差し障りのない会話しかしていない。 視線も重ねられず、華奢な体を抱き締めることも無い。 柔らかな唇に触れる事も。頬を染めて笑いかけてくれることも。 上手くいっていたはずの関係を壊したのは自分だ。けれど、彼が嫌いでした訳じゃない。 それだけははっきりと言える。由人を好きだからこそ、未経験な恋愛感情に振り回されているのだ。 (……このままで良いわけねぇよな) ぼんやりとコンビニで適当に買い物をした静樹は、公園のベンチに座り足を伸ばした。 ビニール袋の中から出したのは、恋人の好きな野菜ジュースだ。 貼り付けられたストローを剥がし、薄いフィルムに当てて刺した。 勢いよく吸い込むと、野菜ジュースとは思えない程の甘さが広がり喉に不快感を与えてくる。 (………あっま……) 静樹が好きな野菜ジュースは、これほど甘ったるくはない。 【いーじゃん!だって、昔から母ちゃんが買ってくるのこのメーカーだったからさ。俺にとっての野菜ジュースはこれオンリーなんだよ】 静樹から見ると若干のマザコンである彼は堂々とそう言うが、野菜ジュースなのだから野菜そのものの味がしてこそだと思うのだが。 (あの母親もな……息子相手に異常だと思うけど) 少し前に由人が実家に帰ってしまった時、意を決して彼を迎えに行った。 たまたま入れ違いで、由人は既に戻ると出て行ったと言われたのだが、あの時の彼女の冷たい笑顔は気味が悪かった。 居ないと言われた静樹が頭を下げて背中を向けると、彼女に呼び止められた。 【檜山くん。わかっていると思うけど、あの子は世界に一人しかいないの。黙ってさらったクセに泣かせるってどういう事かしらね?】 そんな話をされてどう返事をしろというのだ。と、静樹は眉を寄せた。それがまた気に入らなかったのだろう、彼女は静樹に冷ややかな目を向けたまま小声でぼそりと呟いたのだ。 【こんな男の何がいいのよ】 それは間違いなく静樹に聞かせる為に呟かれたものだったが、奥歯を噛み締めて堪え、頭を下げて由人の実家を後にした。 静樹の実家はごく普通だと思う。思春期になる頃からは適度に放置してくれるし、ごく稀に近況を聞きに母親が電話をしてくる程度だ。 だが、由人から話を聞いていると彼がゲイだとは信じられなくなるほど母親の話が多かった。 いい歳をしてマザコンかよ。 そう冷たく思った事もあったが、改めて考えてみるとそれはただの嫉妬かもしれない。 【母ちゃんはさ…、ホントすげぇんだ。俺が男の人にしかときめかないって話した時も驚かなくてさ。可愛い息子に変わりはないからって言ってくれて……。俺、母ちゃんの子供で良かったなぁってマジで思うんだ】 そう話す時の由人は、世の中の誰よりも可愛い笑顔をする。 (……そうか、可愛い顔をさせる相手だからムカつくんだな) 野菜ジュースのパックを眺めながら、由人の顔を思い浮かべた。 可愛い、可愛い由人。人当たりのいい彼は誰にでも好かれるだろう。 叶うならば、その愛らしい微笑みを向けるのは自分だけにして欲しい。 またどろりとした感情がこみ上げ、それをやり過ごすためにパックの中身を勢い良く吸い上げた。

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