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第12話
以前家出した時、自分の行動をどうにかしようと反省したはずだった。
凝りもせず繰り返している自分にはほとほと嫌気がさしているし、今度こそもう別れるしかないんだと落ち込んでいるのに、休憩室に朝一番に乗り込んできた彼女は、追い打ちをかけるように由人を冷たい目で見つめたまま何も言わない。
「……美夜子ちゃん、いっそなにか言ってよ」
「小畑っちさ、店長にバレたらクビじゃね?」
彼女は乱暴に長机に鞄を置くと、休憩室の隅にある自販機で紙パックの牛乳を買った。
「……ちょ、っと、一晩ここで寝ただけだよ?」
「許可とったんじゃねーでしょ」
「緊急事態だったからそんな、」
「あーー、はいはい、今ので大体は分かったから」
自販機の前のパイプ椅子に座った彼女は、ストローを刺して飲みながら、今日も派手な色をした爪を弄っている。
「……え、なに、わかったって」
トン、とパックが机に置かれた。
彼女は、休憩室の奥に座る由人を真っ直ぐに見つめてきた。
入口側と由人の居る場所では数メートル離れているが、それでも分かるほど彼女の睫毛が長く濃くメイクされているのが見える。
「ここんとこ勤務の度に上の空。お客に向ける笑顔は引きつってキモイ。目の下はクマで真っ黒。挙句の果てにはこんな汚ねぇ休憩室で泊まり。……別れたんしょ」
あまりにも的確にすらすらと言い当てられてしまい、返す言葉もなく視線を落とした。
何年も使い古されている長机は、色がはげ落ちている箇所がいくつもあり、油性ペンで落書きされているあともついている。
「……円満?」
「………えっ?」
「だーから。円満に話ついて別れたのかって聞いてんしょ」
「え。いや、その……と、とりあえず一緒にいるの辛くて……」
「はぁ?あんたガキかよ」
何故か不機嫌そうに唸った美夜子は、パックを掴み、勢いよく中身を吸い上げている。
「その場から逃げたりしてちゃ、後が余計に面倒になるじゃん。考えりゃわかるでしょ。どうせ別れるって決まってんなら、荷物運び出して鍵返すまでの間くらい我慢しなよ」
寝不足の由人の頭に、彼女の言葉は感情的にも現実的にも辛くて、本当に別れなきゃいけないのかとまた涙が滲んできた。
「……いい大人が泣くなっての」
「…っ、ぅ、うん、ご、めん」
「あーもう、うぜぇ!小畑っち、今日勤務終わらせたら駅前に集合。服は別に構わないけど、下着はちゃんと用意してきなよ」
「…………なんで?」
「いーから、返事してなって」
由人は垂れてきた鼻水を啜り、はいと素直に頷いた。
その姿に納得したのか、美夜子は赤い唇でにっこりと笑うと更衣室を出ていった。
高級サロンの一室は、まるでおとぎの国の城の中のようだ。
柔らかなスモークカラーのピンクで統一された絨毯は階段にまで施されており、ふかふかとしていて不快で仕方ない。
普段から化粧品に携わる仕事柄、香水なども気にはならない。だが、このサロンの応接室だけは苦手だ。
訪れる客を姫として扱う様にと、社員に徹底している事を自慢されたことがあったが、それにこの香りは似合わない。
まるで夜の店の様に、濃く香るそれはやたらと鼻の奥に残る。
(……臭い)
いつものように高価な化粧品の納品に来た静樹は、このサロンの担当から離れたかった。
気に入られているお陰で仕事はしやすいが、いくら仕事相手だと思ってもこの空間が苦手なのだ。
最近の化粧品は、昔のもののように刺激の強い香りのものは少ない。
時代と逆行している様に思えて仕方がないが、毎月どこかの雑誌で取り上げられているような、セレブ達御用達のサロンで人気は高い。
「これで全部ね、いつもご苦労様」
「いえ、ご贔屓頂きありがとうございます」
「それで、檜山くん。まだ返事は貰えないのかしら」
50代前半だろうと思われる彼女は、このサロンの実質的な経営者だ。
一瞥するともっと若く見えるだろうが、整形はしていなくても、どこをどう化粧で誤魔化しているのかは静樹には予測がつく。
「……すみません。返事とは?」
「あら?まさかまだ気がついてないの?」
言われている意味が分からず惚けていると、彼女は大きな宝石のついた指輪を見せつけるように口元を隠して笑い出した。
「ほほ、ごめんなさい、だからそんな遠回りなことはおよしなさいって言ったのに」
「あの、なんの話しでしょうか」
ただでさえ朝から苛立っているのに、人を置いて分かったように話すのはやめてほしい。
「…ごめんなさいね。その鞄だと思うのよ。その外側のポケットに何か入っていないかしら?」
彼女の視線がソファに座る静樹の足元に向けられた。
そこには自分の鞄と、商品を入れてきた大きめの黒い鞄があるだけだ。
「そちらの、貴方個人の鞄よ」
「俺の、ですか……?いや、何も無かったと思いますが、」
外側のポケットは何か物を入れると忘れてしまうのが常なので、大切な物は入れないようにしている。
静樹が答えながらそこ手を差し込むと、先日貰った伊谷圭介の名刺が指先に触れたが、その隣に何かあることに気がついた。
取り出したそれは、淡いピンク色の封筒で丸みを帯びた文字で「檜山くん」と書かれている。
「……手紙?」
「あぁ、それの事だわ。本当に縁がないって事だと思うけど、もし良ければ読むだけ読んでやってくれるかしら。返事は今貰うわ」
戸惑いながらも彼女の前で中の便箋を広げると、このサロンで働く彼女の娘の名前が目に入った。
手紙の内容は、簡潔に書かれていた。
「……どうかしら。良いお返事が聞けるならそれに越したことはないのだけど」
「…申し訳ありませんが」
便箋を封筒に戻しながらそう言うと、予想していた質問を投げかけられた。
「お付き合いなさってる方がいるのね?」
「……心に決めた相手がいます」
答えながら、酷く情けない気持ちになった。
今朝目が覚めて、室内を見るまでなら言い切れたことなのに。
付き合っているはずの恋人の姿はそこになく、彼の勤務先の給与明細の裏に、意味のわからない謝礼の言葉が書かれ、二人で住む部屋の鍵が置かれていたのだ。
あの部屋の鍵は三つしかない。もう一つある鍵は管理会社が保管している。
あの鍵がなければ、静樹の留守中には帰って来れないのだ。
それがどういう意味を指しているのか、さすがの静樹も一瞬で理解した。
「……ありがとう、娘には私から伝えておくわ」
「…しかし、」
「構わないのよ、始めから諦めていたのよ。貴方みたいな人が一人なわけはないもの」
「……申し訳ございません。では、」
静樹はその後、荷物を纏めてそのサロンを後にした。
次の営業先に向かう為、駅へと向い歩きながら、ふつふつと沸き上がる不快感に眉を寄せていた。
始めから諦めていた。その言葉に、どこかいつも自信がなさそうな恋人の姿が浮かび上がる。
だが、同時に彼は離れていかないだろうと過信していた自分に苛立ちが込み上げた。
(……何をしてるんだ…、俺は……)
昨夜、先に寝ると言った時の由人は様子が少しおかしかった。
あの時、もう少しきちんと顔を見て話せば良かったのに。そうは思いつつも、静樹も困り果てていたのだ。
久し振りに肩を並べる時間が出来たのに、映画所ではなくなったからだ。
普通に隣座るだけの由人を意識してしまって落ち着かなかったし、彼は彼でなにか言いたそうにしているのに、何も話してこなかった。
(違う、だから……。そうじゃない。あいつが話さないからじゃなくて、)
自分から話すべきだった。何を話せばいいのかは未だによくわかっていないが、静樹は由人が好きだ。
もう他の誰かにこんな気持ちは感じることがないと断言出来る。
それを言葉にすればよかったのだろう。
情けない自分よりは、玉砕覚悟で手紙を書いた彼女の方が勇気がある。
「…だせぇ、」
静樹は自分に向けてそう呟くと、ぐっと奥歯をかみ締めた。
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