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第15話
往来で抱き締められていたのは数分だった。
横を通り過ぎる人達のざわめきが徐々に大きくなってきた頃、由人の手を掴んだ静樹が早足で歩き出し、歓楽街の中でも一番端にあるラブホテルに飛び込んだ。
由人の職場の方から向いて歩いてくると、一番手前になるそこはかなり古びた建物で、昔ながらのピンク色をしたいかにもな外観をしたホテルだった。それも劣化してピンク色が一部剥げ落ちている壁もある。
正直、静樹には不似合いなホテルだと思ったが、彼とそんな場所に足を踏み入れるのが初めての経験だったせいで、妙に嬉しく感じてしまった。
入ってすぐにある部屋を選ぶパネルもろくに見ずにボタンを押した静樹に引き摺られ、一階の一番奥にある部屋へと向かった。
「あ、あの、静樹っ、」
ホテルだけじゃない。力強く握る彼の手には加減がなく、痛みを感じている。行動の全てが静樹には不似合いだ。
彼は黙ったまま室内に入り、力任せに由人の手を引き背中を押した。
ベッドに投げ飛ばされた由人が起き上がって彼に向くと、ビジネスバッグを床に放り投げ、ネクタイを緩めているところだった。
こんな状況でも彼のその仕草に目を奪われてしまう。
「……な、にすんの……?」
ラブホテルの室内で発する言葉ではないが、彼が自分をどうこうすることはないはずだ。
冷静に考えると、胸をときめかせている場合ではない。
「するんだよ、セックス」
呆ける由人を睨みながら呟いた彼は、ベッドの前でスーツを脱ぎ落とし、下着一枚の姿でベッドに乗った。
「な、んで?だって、」
「ヤらねぇから出て行ったんだろ」
ベッドに座り込んだまま体を引いていた由人に、怒りの目が向けられている。
何故いつもこうして彼を追い詰めないと理解できないのだろう。自分の不甲斐なさにまた悲しさが込み上げてくる。
「……せ、静樹、怒ってんの…?」
「は?……っ、当たり前だ!」
肩を掴まれ、押し倒された。年季のはいったベッドはその衝撃に軋んだ音を響かせた。
掴まれた肩に彼の体重がかかり、動けない。
思わず眉を寄せたが、見上げた先には由人よりも傷ついた苦しそうな瞳があった。
「………どうして黙ったまま消えるんだよ、お前は…!言いたいことがあるなら言えよ!」
絞り出すように向けられた言葉はとても感情的で、静樹の本音に聞こえた。
「…って、だって、言えないじゃん!俺から、だ、抱いてとか、言えない!……せ、いじゅは、ゲイじゃないだろ……っ」
ずっと言わないようにと押さえ込んでいた感情が、思考が追いつかないまま飛び出してしまった。
「そんな事分かってたことじゃないのかよっ、俺は女しか抱いたことねぇよ!」
「だから!……だから言えなかった……」
女しか抱いたことがないという言葉が、女しか抱けないという意味合いにしか聞こえない。
どうしても辛くなるそれは受け止め切ることが出来なくて、込み上げる涙を堪えようと唇を噛んだ。
「……っ、違う。そうじゃない」
痛む程圧力がかかる肩から手が離され、由人の頬を包んだ。
「由人、唇を噛むな。……怒鳴って悪かった。お前に…、泣かれたくないんだよ」
まだ怒っているように見える彼の手が、かすかに震えていることに、そこで気がついた。
「……静樹…?」
「………由人、俺はお前が好きだよ。それを信じる事が出来ないか?」
由人の返事を待つ彼は、酷く疲れているように見えた。
もしかしたら、由人が思う以上に辛い思いをさせてしまったのかもしれない。
「し、んじて、いいの…?」
「あぁ。…お前と暮らし始めてからは誰ともしてない」
「…………暮らす前は?」
思わず突っ込んでしまった。だが、今でもはっきりと思い出せる感覚は、ずっと忘れられなかったものだ。由人の勘が当たっているのなら、二度は確実に誰かと寝ているはずだ。
「……多分二回。相手までは覚えてない」
誤魔化さずに告げてくれた彼の気持ちは嬉しいのに、文句を言いたくなってしまった。自分勝手に家を出て困らせたのは由人なのに。
「お前は?ないのか?」
「へ?な、いよ!あるわけないだろ、」
かっとなってそう言ってしまったのに、静樹は由人の頬を撫でながら、そうか。と嬉しそうに笑った。
(……そんな嬉しそうに笑うなよ…。卑怯だ……)
「で、どうする?」
「……どうするって…」
「俺と別れるつもりで出て行ったんだろ。……まぁ、俺はお前に未練があるからこうしてストーカー紛いの事までして、歳下の生意気な女に説教食らったんだけどな」
「…………え?美夜子ちゃんのこと?」
押し寄せた情報は一度で理解出来ずにそう言うと、静樹がキスをしてきた。
「どうするか決めろよ。別れんのか?」
「……別れない。……ごめん、静樹…、別れたくない…」
告げながらまた涙が滲んできたが、気がついた静樹に鼻を摘まれてしまった。
「だから。泣くなって言ってるだろ」
「……って、う、れしいもん、」
好きだと聞かせてもらえた幸せを反芻しながら言うと、彼は目を細めて優しく笑ってくれた。
後先考えもせずに感情をぶつける事は、静樹にとって好ましくない事だ。
物心ついた時からスマートに生きてきたつもりだった静樹にとって、往来で大声を出し同性の恋人を抱き締めて離せなかったことは大事件だと言っていいだろう。
だが、こうして愛しい彼の寝顔を前に落ち着いて考えていると、腑に落ちた。
そうまでしても彼を離したくなかったのだ。
別れたくないと由人に告げられて安堵すると、彼への愛しさが溢れ胸が苦しくなった。
その勢いのままセックスをしたかったのだが、それは叶わなかった。
由人が家を出ていってからほんの数日だが、その間殆ど眠れなかった静樹は、疲労と安心感とで話すうちに寝落ちてしまったのだ。
早々と寝たお陰で、目が覚めたのは早朝だった。
隣で寝息を立てる由人を確認した後、勢いで入ったラブホテルの室内を見渡してみて驚いた。
一体何年手入れしていないのかわからないが、鮮やかだったであろうピンクの壁紙は変色しているし、足を動かせるだけでギシギシとベッドのスプリングが音を立ててしまう。
由人とラブホテルに入るのは初めてなのに、それがこんなにも老朽化した建物だなんて。
(…まぁいいか。こいつがいるならそれでいい。……それに、初めて抱くのは家がいいな)
ぼんやりと考えていたが、そろそろ由人を起こした方が良さそうだ。
「……由人」
長い睫毛を指先で弄ると、すぐに薄く目を開いた。
「…んむ……」
目を擦る彼のその手を掴んで避けると、寝起きの唇にキスをした。
「……おはよ……」
目覚めたすぐなのに、寝起きのキスに照れているらしい。そんな様子に愛しさが込み上げた静樹は、彼の身体に腕を回して深くキスをした。
「ん、っ!」
驚いた声を出していても抵抗はしない由人に、嬉しさが滲んだ。
「一度帰ろう。着替えて早めに出て、モーニングを食いに行かないか?」
朝から赤く染まる彼の頬を撫でて提案してみると、嬉しそうに何度も頷いた。
結局はただ話し合う為だけに泊まってしまったが、自分達にとってきっと特別な思い出になる。
静樹は使い込まれた部屋の扉を閉める時、その年季のはいった空間に感謝を感じながら愛しい恋人とホテルを出た。
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