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第17話

いつもの休憩室には由人と美夜子の二人以外誰もいない。 それをしっかりと確認した上で、長机の上にそっと箱を置いた。 「……なにこれ」 「あ、あの、駅前のケーキ屋さんで買ったんだ。ユカちゃんと美夜子ちゃんに迷惑かけたから。……俺と静樹からお礼って事で」 「わざわざストーカー彼氏の名前まで言わなくていいけど。……パティスリーツヤマのロールケーキじゃん。朝から並ばねぇと買えないんじゃね?」 ケーキの箱を覗いた美夜子は、ちらりと目を向けてきた。 「や、今朝はちょっと…………午前休とったから」 何となく言いにくくて小声になったが、それを聞いた彼女は真っ赤な唇をぽかんと開けた後、珍しくニヤニヤと笑ってみせた。 「へぇ〜。大人ってセックス疲れでお仕事半休取ったりすんだ?なんか汚ねぇなぁ」 美夜子の声はかなり大きく、休憩室に響く程だった。 「ちょっ!違うから!してないから!」 「別にどうでもいいや。とりあえずユカがこれ好きなんで貰うけど」 「う、うん。また改めてお礼言いに行くね」 「別にいーよ。ユカが小畑っちのこと異様に気に入ってるっぽいから、会わないでいいし」 はっきりと言われたせいで、頭に染み込むのに時間がかかってしまった。 「……え?えっ、もしかしてこの間の事で喧嘩とか、」 「はは、ないない。それは有り得ねぇっすけど。……小畑っちの事、信じてるから」 今日の彼女の爪は、暗い中でも目立ちそうなネオンカラーのオレンジに染められていた。 あまり感情を出さない彼女の視線が手に落とされ、自分のネイルを撫でている。 「……それは、ユカちゃんのことは信用出来ないってこと?」 長い睫毛の向こうの瞳が真っ直ぐに由人に向けられ、言うべきじゃなかったかと直ぐに後悔した。 「鈍感そうに見えて実はよく分かってるよね。まぁ、そんな感じかな。……小畑っちも、仲直りすんのはいいけどさ、信用しすぎねぇようにしなよ」 短いやりとりで、彼女も色んなことに苦悩しながら好きな相手との生活を維持している事を知った。 それでも、今の由人は静樹を信じている。それはもう揺るぎなく自分の中にしっかりとある。 昨夜は、きちんと話し合う前に二度もソファでいやらしい行為をしてしまったが、夜に並んで布団に横になった時、暗い部屋の中で由人を抱き締めた彼が、ぽつりぽつりと聞かせてくれた。 思いついたことを話す感じだったせいで、途中で話が飛んだりはしていたが、本音で話してくれていることがわかって、由人は嬉しかった。 彼は、由人を抱きたいと考えていた事を話してくれた。由人がセックスをしたがっていることにも気がついていたと。ただ、どうしても由人を抱こうとした時に、頭に浮かぶ疑念があるらしい。 それは由人が、と言うより、自分に問題があるのだと話してくれた。 由人はそれを聞かされた時、正直に自分が男だからかと聞いてみたが、今更なことを心配するなと怒られてしまった。 (でも、そりゃそうだよな。お互い……触り合って興奮して出してるんだもん。俺の身体が嫌だとか……そういうんじゃないんだよなぁ) 知り合った頃の静樹は、常に複数の女性を連れて歩いている男だった。それを鼻にかける訳ではなかったが、隠そうともしていなくて。 当時の友人達からはいろんな噂話を聞かされていた。 【あいつ、セックスの時何もしないんだって。ちんこだけ勃たせときゃ、女が自分から跨って腰振るんだってよ】 友人達は、それってただのバイブと一緒じゃん。と笑っていたが、由人はそうは思わなかった。 そうまでして彼と寝たいと思わせる、その魅力があるんじゃないのかな。と、そんな風に感じた記憶があった。 (本当は野獣みたいだとか……?) 休憩室の鍵を閉めた由人は、鍵を戻す為に事務所へと向かった。 もう由人以外の従業員は全員帰ったはずだ。 鍵を手に歩きながら、変な勘繰りはもうやめようと頭を振った。 静樹は、もう少し待っていて欲しいと由人に告げたのだ。ここまで来たならば、うやむやに抱きたくないと、真剣な声で聞かせてくれた。 彼が何を悩んでいるのかはわからなかったが、彼がそこまで真剣に考えてくれているというその事実だけで胸が熱くなった。 (それでもまぁ……。たまには触りっこはしたいなんて言っちゃったけど…。でも、静樹もそれはしたいって言ってくれたし!あ〜、もうホント幸せ!) 誰もいないと思っていた由人が扉を勢い良く開けると、人がいて驚いた。 「せ、芹沢店長、まだいらしたんですか」 苦手な人物を前に顔が引き攣らないように意識しながら、休憩室の鍵を定位置に片付けた。 「帰るところだよ」 「そ、そうですか、お疲れ様です」 さっさと鞄を取って帰ろうと思ったが、店長は何故か由人の鞄がある机の前に立っている。 「……あ、の、取らせて貰えますか…」 仕方なくそばに行った由人が手を伸ばすと、突然顎を掴まれた。 「わ、な、なんですかっ」 それだけでなく、腰に触れてきた。その手がするりと尻を撫でてきて、不快感から暴れて距離を取った。 「お、俺帰りますんで!」 鞄を掴んで逃げる様に事務所を出た由人は、店長の芹沢が追いかけてこない事を確認してから携帯を取り出した。 そこには静樹から、帰りは少し遅くなるから夕食はいらない。というメールが来ていた。 (……や、大したことないし。電話するほどの事じゃないか) ただ、触れられた不快感が酷かっただけだ。昔は感じたことの無かったそれに、静樹への想いを再確認出来た気がした由人は、夕飯を買うためにスーパーに寄った。 「なんなん?暇なんか?くそうざいんやけど」 隣に座っただけで親の仇のように睨まれたが、それを流した。 静樹はカウンターの中の高齢のマスターにビールを注文した。 「……あれ?……自分一人なん?それやったらええで」 「一人だと何がいいんだ?」 「由人クンと別れたんやろ?せやったら相手したってもええで、って言うてんねんやん」 睨んでいた瞳が、途端に媚びるように細められたが、肩に乗せられた馴れ馴れしい手を払い落とした。 「触るな。別れてない」 「……なんやねん、おもんないなぁ」 このゲイバーに来れば彼に会えるだろうと思っていたが、まさか一度目で会えるとは思っていなかった。 静樹はよく冷えたビールを飲みながら、隣に座る汐月を見た。 不機嫌そうな顔をしながらカクテルを飲んでいるが、由人以外の男を受けつけない静樹から見ても彼は可愛い顔立ちをしている。 由人よりも背も低く、女性のように華奢な体つきをしていて、彼がそれなりに誘うならばノーマルな男も落とせるのではないだろうか。 「ジロジロ見んといて。可愛いオレが減ってまうやろ。……由人クンと待ち合わせ?」 キツい言い方は変わらないのに、その台詞にどこか淋しさを滲ませた気がする。 「いや、今日はお前に会いに来た」 「オレとシたいんやったら由人クンと別れてきてや。相手おる奴とはやらん主義やねん」 「……それはあの伊谷って男の真似か?」 静樹がそう言うと、色素の薄い茶色い瞳が大きく見開かれてこちらを見た。 「…由人クンに聞いたんか」 「あぁ。……それがなんだ。そんなに驚くことか」 「そら驚くやろ。それを知ってるって事は、由人クンと圭介さんが寝た事あるって知ってるって事やろ?」 「………いちいち言うな」 確認を取るように言葉にするのは、おそらくわざとだ。 「因みにオレも圭介さんとはシたで?オレの知る限り過去最高に優しくて激しいセックスやったなぁ」 静樹の反応を楽しんでいるようで、顔を逸らしていたはずの汐月はこちらを向いてカウンターに肘をついている。 「あっそ」 「……なんやねんな。何しに来たん?…………あ、は〜、なるほど。まだヤってへんのかいな」 「…お前、もう少しまともに話せないのかよ。それとも関西弁が汚いだけか?」 「ムカつくオッサンやな!言っとくけど、オレはモテるんやからなっ」 「…………」 顔立ちが可愛いだけで彼を誘う男は確かにいるのだろう。ここまで口煩い汐月を押さえ付けて征服し、よがらせる事を良しとする輩はいそうだが。 「なんやねん、疑ってるんか」 「いや、お前、可愛い感じだけど俺と由人よりだいぶ上だよな?」 何となくで言ったことだったが、どうやら指摘されたくなかったらしい。彼はよく動く眉を不快そうに歪めている。 「……なんだ、由人に歳下だって嘘ついたのか?」 「つ、ついてへんわ!はっきりゆーてへんし、由人クンにはオレのが歳上って感じで話してあるもん!」 静樹の勘では、27か28あたりだろうと考えていた。 だが、その話題にもあまり興味はなかった。 「それはどうでもいいんだけど」 「……ほんま失礼やな。あれやろ?由人クンの過去の男遍歴が聞きたいんやないの?」 一番知られたくなかったど真ん中をいきなり当てられてしまって喉を詰まらせると、汐月が楽しそうににやにやと笑いだした。 「この間な、圭介さんとここで飲みながら話しててん。……あんたアレやろ。オトコ抱いたことないから自信が無いんやろ?」 ぼかしながら聞き出してやろうと企んでいた事は、もうこの時点で失敗だと思った方が良さそうだった。この手の相手には変に策を立てるより、直球で聞いてしまう方がいい結果に繋がる。 「……クルクルの言う通りだよ」 「は?クルクルってなんやねん」 「いい加減俺も由人とセックスしたいと思ってる。何度かそうしようともしたけど、寸前になるとどうしても無理なんだよ。……どうやればいいかってのは調べたけど、由人の方が経験豊富だろうし。……あいつ、俺の事大好きだからさ、」 「ちょお、待ちぃな。オレの質問には無視で惚気んのかい」 「いざ寝てみて、がっかりされたくねぇんだよ」 何年も胸の底に押し沈めていたことを、初めて声に出した。予想していたより自分の耳に情けなく聞こえたが、誰かに告げるくらいなら最後までしなくてもいいと思っていた事が馬鹿らしく思えた。そう思えることが出来る自分になれたのは、由人が諦めずに好きでい続けてくれたからだ。 グラスの中で弾ける小さな泡を見つめていると、黙っていた汐月が静樹に大きな目を向けた。 「由人クンはな、いつ来てもアンタの話ししかしたことないんや。そんな程度でわかった気になっとったらバチ当たるで。……あの子はメンドクサイけどええ子や。可愛いと思うんやったらもう泣かすんやないで」 その向けられた目が少し潤んで見えたのは気の所為だろうか。 少々面倒くさい恋人だが、彼はいろんな人間に好かれる性質をしてる。汐月もそのうちの一人なのだろう。 静樹は、必ず礼はしろという汐月に頷いた。

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