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第18話
いつも通りの朝。
洗顔を済ませて冷蔵庫を覗き、賞味期限の近づいた甘ったるい野菜ジュースをプリンの影から取り出す。
恋人が飲むかどうかを確認しないでストローを刺し、飲みながら狭いキッチンに立つ寝癖のついた髪を後ろから見た。込み上げる可愛さに紙パックの中身を勢いよく吸い込むと、噎せそうになる。
寝惚けながらトーストにバターを塗る恋人は、静樹が後ろから肩に顔を擦り寄せるだけで赤い頬を見せた。
邪魔だから。と言いながら、全身で好きを伝えてくる。単純で面倒くさい彼が愛しい。
賞味期限近いんだけど。と、背中から抱き締めて紙パックを口元に差し出してやると、素直にストローをくわえた。
恋人がまとめて買ってくる野菜ジュースは、いつもこうして賞味期限が切れる直前まで放置されているが、もしかしたら計算なのだろうかと最近思っている。
彼の名前を呼ぶと、白いストローの中を上がる野菜ジュースの色が落ちて紙パックに戻された。
静樹のキスを待ちわびるように僅かに開かれる唇は見るからに柔らかそうで、静樹は朝の口付けを時間をかけて味わった。
由人が家出から戻ってからは、そんな甘い朝が続いている。
だが、まだ一週間も経過していないはずなのに今朝は少し元気がないように見えた。
気のせいかもしれないと頭から追い出すのは簡単だが、見過ごして後で大変なことになるのはもう嫌という程理解している。
(やっぱりアレか。セックスに待てをかけてるからか……?)
我ながら情けないとは思う。女相手に毎晩のように吐き出していたのが信じられないくらいだ。そう感じるほど、自分は変わったと思っていた。だからこそ焦って気持ちを置き去りに体を繋げるような事はしたくない。その気持ちというのも、恋人のためと言うよりは自分の気持ちが主体なのだが。
職場の壁時計を見て、そろそろ得意先に向かおうと机の下から鞄を取り出したところで携帯が低い音を出して震えた。
てっきり仕事絡みかと思っていた静樹は、表示された名前に目を見開いた。
「檜山くん、今から行くんでしょ?この書類一緒に担当の方に渡しておいて欲しいんだけど」
上司が差し出してきた書類を奪うように受け取った静樹は、分かりました。とだけ返事をしてフロアから廊下に出た。
廊下の隅にある人ほどの背丈のある観葉植物の影に回り、深呼吸をした後携帯を耳に当てた。
《忘れてたでしょ》
怒りを表すように低く唸るその声に、静樹は眉間を指で押さえつつ、すみません。と謝罪した。
《すみませんじゃないわよ。昨日普通に由人から連絡あったのよ》
初対面の時から苦手で仕方ない彼女は、あろうことか恋人の母親だ。
「……あの……、すみません」
他に言葉が浮かばないのは単に連絡を忘れていたと言う動揺だけではない。静樹はとにかく由人の母が苦手だ。
《……檜山くん。営業先でもそんな謝り方してるの?》
相手があんただからこうなるんだよ。と胸の内で呟いたが、言葉にせずにいると互いに無言になってしまった。
《……あのね》
今から外に行くので。と言おうとしたのに、先に声を出されてしまった。
《結局は元サヤみたいだけど、由人が私にも連絡しないで家出したなんて初めてだから。…今度何かあったら由人にははっきり言わせてもらいますから。それだけ覚悟しておいて下さい》
聞き慣れない敬語にゾワゾワとした嫌な感覚が全身に広がるのがわかる。
《ちょっと聞いてるの?》
「き、いてます。……連絡が遅くなって申し訳ありませんでした」
《……それだけ?》
「…は?」
《あぁ、そう。もういいわ》
直後に耳に響く通話終了の高い音。
「……っクソ、」
可愛い恋人とあの母親は本当に血が繋がっているのだろうかと考えたが、マザコンな由人に言えるわけもない事は考えないようにしようと鞄を取りに戻った。
昼間の嫌な気分をどうにか振り払おうと、静樹にしては珍しく夕飯を作った。
とは言え、料理は好きではないしやりたいと思ったことも無い。
「茹でただけだけど、不味くはないだろ?」
茹でて市販のソースをかけただけのパスタだったが、静樹が用意をしたと言った時は喜んでいたのに、由人は半分ほどしか食べていなかった。
「美味しいよ、でもちょっと食欲なくて」
笑顔を向けているが、それは上辺だけに見える。そういう時は間違いなく笑って誤魔化そうとしているときで、ここを逃すと面倒になる。
静樹は空になった自分の皿を横に避けると、由人の皿を取り上げた。
「せっかく作ってくれたのにごめん」
「それはいいけど、隠してる事は話せ」
咀嚼しながら返事を待っていたが、気まずそうに視線を落とした由人は口を開かない。
先に片付けようとさっさとパスタを完食し、食器を流しに全て運んだ。
由人の手を取り立たせると、ソファに移動して並んで座った。静樹はそのまま彼の手に指を絡めて繋ぎ、自分の膝に置いた。
「……せ、静樹?」
「いいから話せよ」
至近距離で目を見てそう言うと、静樹の胸元に静かに顔を寄せてきた。
「……由人」
「………うん、あの…」
彼が話しかけたその時、携帯の着信音が部屋に響いた。
「……静樹、電話」
「あ〜、くそ。タイミング悪いな」
仕方なく立ち上がり、床に置いていたビジネスバッグから携帯を取り出した。
相手は直属の女上司で、まさか飲みの誘いじゃないだろうかと警戒してしまう。
「出ないの?」
「…………もしもし、」
無視しておこうかと思ったが仕事の話だとそうはいかず、由人に促され耳に当てた。
《あ〜、まったりしてる時間に悪いわね》
「いえ、なんすか」
呼び出し案件でなければいいのだが。と考えていると、予想もしなかった話を切り出された。
《あんたの恋人って男の子だったのね。ちょっとびっくりして思わず電話しちゃったわ》
「…………なん、」
静樹は携帯を持ったまま思わず由人の顔を見た。
「……?」
「それ、どこで?」
《SNSで回ってるの見たの。二人とも顔は見えないけど、外で抱き合ってるやつ。鞄とスーツでもしやと思ってカマかけたけど、やっぱりそうなのね》
返事をしない静樹が心配になったらしい由人が、身を寄せて来た。
大丈夫かと伺うように、彼の手が静樹の胸元にそっと添えられる。
静樹は腕を回して由人の肩を抱き寄せ、大きく息を吸い込んだ。
「そうです。同性の恋人と一緒に住んでます。……前に俺が会社で一晩明かしたことありましたよね。それも、コイツともめたせいです」
さすがに会話の内容が分かったらしい由人が、慌てた表情で静樹の服を掴み揺さぶってきた。
《……思ったよりカッコイイこと言ってくれるじゃない。いいわね。そういうの好きよ》
「先輩、もしかしてその写真の事で上から何か言われたんですか?」
《そこは心配しなくていいわよ。優秀な部下だし、パートナーを大切にしているなら文句ないからね。じゃあ、恋人によろしく》
「……お疲れ様です」
酒飲みな女上司の下についたことを当初は疎ましく思っていたが、一緒に仕事をしてそれはすぐに尊敬へと変わっていた。
女性ならではの細やかな心配りと強気な行動力。それはどうやら部下に対しても発揮されるものらしい。
「静樹、今の会社の人じゃないのか?」
「あぁ、そうだけど、心配いらねぇよ。それより、俺とお前が抱き合ってる画像が出回ってるって言われたんだけど、」
今聞かされたことを由人に告げると、彼は顔色を悪くしてまた視線を落としていく。
「……由人、もしかしてSNSで流れてることを隠してたのか?」
彼は青ざめた顔を小さく横に振った。静樹は両腕でしっかりと由人を抱き締め、柔らかな髪の中に鼻を埋めた。
「話してみろよ。……怒ったりしねぇから」
彼の香りを吸い込み、緊張で強ばる背中を優しく撫でてやると、由人は小さな声で話し始めた。
彼の話によると、数日前から職場の上司から異常な接触を受けていたらしい。
元々由人は上司である店長からキツく当たられているようだったが、それとは違う理解できない接触に困惑していた。昨日の勤務後、帰ろうとした由人を呼び止めた店長が差し出したのは、静樹と由人が抱き合っていた画像だった。
「それで何か脅されたのか?」
「…脅された、のかな」
「違うのか?何を言われたんだ」
「………か、体つきがすごく好みだから…、静樹を紹介しろって……」
「………………あ?」
間抜けな声を出してしまったが、腕の中から静樹を見上げてきた恋人は、不安そうな顔をしていた。
「紹介しないと本社にゲイだって……、ふしだらな生活をしてるって報告するぞって…」
「いやいやいや、なんだそれ。何でそこで俺なんだよ」
「俺、どうしたらいいかわかんなくて、」
静樹は予想外の事態に笑いだしそうになっていたが、彼は目を潤ませていて今にも泣きだしそうだ。
「由人、お前。その店長に俺を差し出すつもりじゃないよな」
「そんなの無理!俺が無理っ」
「……だいたいさ、俺はゲイじゃねぇんだよ。だから差し出されても無理だけどな」
しゅんと肩を落として顔を伏せた由人の体が、僅かに腕の中で離れた。
(しまった)
「由人、俺を見ろ」
静樹はまだ同性と寝たことはない。だが、可愛いだとか、触れたいと思うのは由人だけだ。
指先で由人の耳に触れ、頬へと滑らせる。
優しく顔を上げさせると、悲しそうな瞳をした由人がいた。
(…くそ、可愛い顔しやがって)
「俺はゲイじゃない。……お前だけだからって意味だからな」
「……静樹…っ」
触れるだけのキスをして頭を撫でてやると、距離を詰めて身を任せてきた。
「お前にどうこうさせろとかじゃなくて良かったよ。……誰にも触らせるなよ」
お前は俺だけのものだから。
重ねた唇に熱い気持ちを乗せると、甘い舌を舐めるだけで下腹が疼いた。
「…せ、静樹も、…俺の……」
キスの途中で必死に訴える彼が可愛くて、その言葉ごと飲み込むように顎を掴み舌で絡めとった。
狭いソファの上で身体を絡め合い、互いの熱を高めていく。
繋がりたい。
静樹は腹の底から強く迫り上がる欲望に、自らの心臓の音が体内で響く情熱を初めて体感していた。
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