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第4話

4  犬塚さんの家までの道のりは、何度も歩いたもののはずなのに、今日はやたらと気まずい。無言でカツカツと前を歩いて行く犬塚さんの、斜め後ろをついていく。犬塚さんと会ったらアレ話そうとかコレ話そうとか、色々思っていた筈なのに、とてもじゃないけど能天気な話が出来る雰囲気じゃないぞ、これは。初夏になりかけのこの季節、寒さがないのが唯一の救いだ。冬だったら、心まで凍りついちゃいそう。  なんて、そんなことを考えていれば、いつの間にか犬塚さんの住むマンションの前まで来ていた。駅からそう遠くないここは、交通の便も良いし、何より大きいテレビがあるから、本社勤務になるまでは週一ペースで通っていた。エレベーターに乗り込むのだって、そこから七階のボタンを押すのだって慣れているのに、犬塚さんの纏う空気がいつもと違うせいでやっぱり気まずい。ううう。どうしたら機嫌直るかな。つーか俺なんかしたかな。やっぱ後輩のせいか。くそう。責任取ってけっての。  恨み言を心の中でぼやきつつエレベーターが目的の階に着いたのを機に足を進め、角部屋である犬塚さんの部屋の前まで短い距離を歩く。  犬塚さんがドアの鍵を開けるのを斜め後ろで待って、ドアを引いて促されると、軽く頭を下げて「お邪魔しまーす」といつもの台詞を言って、玄関に入った。 「おかえりなさーい」 「ただいま、」 「うわっ」  先ほどからの気まずさを払拭すべく笑いかけると、玄関の中に身体を滑らせてきた犬塚さんの腕が伸びてきて、抱き締められた。少しだけ、犬塚さんの方が上背がある。身体ごと抱きすくめられて、何も言えなくなってしまった。 「い、いぬづかさ、」 「――会いたかった」  首筋に顔を埋められて、小さく呟かれる言葉が耳に入っ途端、きゅんと胸が締め付けられる。  こんなの、ずるい。  そろりと、腕を動かして犬塚さんの背中に回し、控えめに抱き締め返した。 「俺も、会いたかった」 「秋……」  改めて言葉にすると、身体の力が抜けてくる。今まで気まずくて緊張して強張っていたのが、ウソみたい。  犬塚さんの首筋に顔を埋めて、深く息を吸う。 「おつかれさま。仕事、大変だな」 「ん」 「まだ続きそう?」 「ん」 「……秋?」 「ん。……なんか」 「うん」 「すげえ、安心する」  そう零すのは、本心だ。  俺より少し低い犬塚さんの体温。  ほんのり香る柑橘系のにおい。  こうして触れるのは本当に久しぶりな気がする。犬塚さんの体温を満喫すべく、ぎゅ、と抱き締めた。 「ふふ、……がんばってよかった」 「秋……」  零れる笑いが抑えきれなくて小さく呟くと、犬塚さんの小さな囁きが耳を掠める。擽ったさに肩を竦めて顔を少し上げた先、顎先が捉えられて、顔を寄せられた。その先を予感すると同時に期待して、目を伏せる。すぐに、柔らかな感触が唇にした。  当たり前だけどキスするのも久し振りで、それだけで、じわりと顔が熱くなるのを自覚する。  何度も角度を変えて口付けられ、ぞくりと背筋が震えた。犬塚さんの首に、腕を回してしがみつく。それを合図に、キスが深いものになっていった。 「んっ、……ふ、ぁ」 「は、……」  薄く開いた唇の隙間から、熱い舌が入り込んでくる。ぬるりと濡れた感触を受け止めて、俺も、舌を出して犬塚さんの舌先を舐めた。犬塚さんが、更に力を込めて抱き締めてくれて、気付いたらすぐ傍の壁に押し付けられていた。更に開いた口の中に舌を押し込められて、唾液が送り込まれてくる。どちらのものかわからない唾液をこくりと飲み込むけれど、飲みきれなかったものが口角を伝った。 「ふ、は、ぁ」  息継ぎの合間に、上擦った声に混じった息が洩れる。犬塚さんは余裕だ。悔しい。でも、上顎を擽ったり、舌先を甘噛みしたり、時には舌全体を吸い上げてくる動きに翻弄されて、じんじんと頭が痺れてくるのを自覚する。  未だ薄暗くて、しんと静かな玄関に、くちゅりと濡れた音だけが響いている。  漸く、犬塚さんが、ゆっくりと顔を離した。互いの唇の間を、唾液の糸が伝っていて、いやらしい。  肩で荒く呼吸をして、ぼやけた瞳で、犬塚さんを見上げた。薄暗い中でもわかるくらい、犬塚さんは、見慣れない男の顔をしていた。 「秋……」 「は、あ、……ぅわっ、」  熱っぽく囁く声は色めいて、更に近付いてきた犬塚さんの唇が、俺の首筋に触れてきた。そして、手が、スーツのジャケットのボタンを外してくる。あれ、これ、もしかして、まずいんじゃない? 「ちょ、っと、待っ……」 「これ以上待たせるのか」 「う……」  慌てて犬塚さんの肩を押し返すと、低い声で言われてしまった。犬塚さんと付き合うようになって半年くらい経ってるけど、なんだかんだ、まだ、一回もしてない。いやだって怖いでしょ。  ちらりと視線を持ち上げると、切なげに俺を見下ろす犬塚さんの瞳とかち合った。うう。ずるい。 「――ベッド、」 「ん?」 「ベッドが良い」  犬塚さんのジャケットの裾を引っ張って、精いっぱいのおねだりをする。初めてが床の上ってのは、流石の俺も勘弁だ。 「つれてって」 「了解」  犬塚さんが笑う気配がする。  ううう。もしやこれって、めちゃくちゃ恥ずかしいやつではないだろうか。  キスのせいだけじゃなくて赤くなっていると、犬塚さんの手が、俺の膝裏と首に回って、その直後にふわりと浮遊感がした。 「え」 「連れてって欲しいんだろ?」 「言ったけどこういう意味じゃないっていうかうわあああ」 「ゲームん中ではやってただろ」 「ゲームと現実を一緒にしちゃいけないと思います!」 「はいはい、暴れると落ちるぞー」 「うわあああああ」  ――まさか自分が男に姫抱きでベッドに運ばれる日が来るなんて、思いもしなかった。

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