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第8話
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幸せな休日の反動は、大きい。
出勤してもふわふわとした心地は消えなくて、次から次へと舞い降りてくる仕事を捌くことも出来ない。瞼を閉じる度に蘇るのは、「しゅう」と俺を甘く呼ぶ声と、大きな手で触れられる感覚。大事に優しく扱われるのは、いつまで経っても慣れない。
結局あの後、意識を失うまで十分に“愛されて”しまった俺だ。こわい思いも痛い思いもしなかったけれど、沸き上がる羞恥に消えてしまいそうになった。
甘さに溺れて帰って来られなくなる前に、泣く泣く家に帰ったのが昨日の夜の話。一人寝が当たり前だったのに、さみしい、とか感じちゃうようになったんだから、全く犬塚さんは恐ろしい人だ。
犬塚さんの料理の味や、繋いだ手の感触に浸っていると、パソコンを打ち込む手が止まる。今日は、時間の進みが遅い気がする。何故なら、全く集中できていないからだ。
ちらりと時計を見ると、漸く、お昼の休憩タイムにさしかかる時間だ。
「せーんぱい、一緒にお昼行きません?」
「んー、いいけど奢らないよ」
「あっは、わかってますってー」
後輩が話しかけてきて、データを保存して一度パソコンを落とす。ぜんっぜん進んでない仕事を見るのは気が重い。
ゆっくりと腰を上げると、後輩が身を屈めてきた。近い。
「あのあと、お楽しみだったんですね」
笑い混じりの囁きに、全身が強張る。
そうだ、そうだった。
すっかり忘れてたけど、後輩に犬塚さんのこと、バレちゃったんだ。
「結構独占欲強いですねー、先輩のカレシ」
「え」
「ついてますよ、ココ」
自分の首元をトントンと示す後輩の仕草に、反射的に首元に手を遣る。ワイシャツで隠れないギリギリの位置に残った、赤い痕。身体中ちゅっちゅと貪られたときに、付けられたんだ。
うっ。
恥ずかしい。
すごく恥ずかしいし、そんなものにときめく年じゃないのに。
――滅茶苦茶、嬉しかったりして。
じわじわ赤くなるのを自覚して顔を俯かせると、後輩が離れて行った。つい、視線で追いかける。
「あーあ、かわいいなあ」
なんてのは、聞こえない振りだ。
デイバックを手にして、昼食に出ようと歩き出す。
その後ろをついて来る後輩が、「ねえ先輩」と声をかけてきた。
「俺と浮気しません?」
「しません!!!」
何言い出すのこいつ。
オフィスのドアを潜って、社食へと向かう。地下にある社食は、支社よりも広く豪華だ。乗り込んだエレベーターは、たまたま空いていて、俺と後輩の二人きり。
ドアを閉めたと同時に、後輩が距離を詰めてきた。壁に追い詰められて、見上げる。――なんで壁ドンなんてされてんの。
「浮気がダメなら、本気にさせちゃえばいいですよね?」
「はー?」
女の子が放っておかなそうな甘いマスクが、瞳を細めてそう嘯く。俺は眉根を寄せて、訝しむ声を出した。
「あのねえ、俺超一途だから」
「そういう人を落とし込むって最高に楽しいと思いません?」
「性悪ー」
顔を近付けてくる後輩からふいと顔を背けてぼそりと言って、じと、と睨み返す。
「でも残念でしたー、俺たち超愛し合ってるから!」
「ふうん? いつまでもそう言ってられるといいですね、」
うわ、やな感じー。
後輩が俺の首筋についた赤い痕を指で撫でたと同時に、チン、と音がしてエレベーターのドアが開くから、俺は勢いよく後輩を押しのけた。
わ、と声を出してよろめく姿が見えるけど、知ったこっちゃない。
あーあー、メガネの後輩くんが懐かしいなー。元気かなー。
本気で支社が懐かしくなるくらい、そして、幸せの反動は不幸せだと思うくらい、今週は忙しい。犬塚さんとの充実した時間を反芻する暇があったのなんて週の始めくらいで、その後はもう、仕事、仕事、仕事。なーんで納期が近い仕事を同じ人に回すのかあ。キーボードを打っても打っても終わりが見えない。うう、帰りたい……。ゲームしたいなんてもんじゃない、家に帰ってベッドで寝たい。そう、ここ最近の俺は、終電ですら帰れなくて、タクシー帰りが常だった。酷いときにはオフィスで寝てしまって、そのまま朝の出勤時間を迎えるなんてこともあった。ひどい。ひどすぎる。
「人間としての尊厳とは一体……」
「せーんぱい、大丈夫ですか?」
「だいじょぶじゃないぃ」
目の下に隈、昨日は風呂に入ってないから汗くさい。俺を覗き込む後輩は、心底心配そうな顔をしていた。いつもの余裕はそこにはない。
「少し休んだ方がいいんじゃないですか」
「それが出来たら苦労しないってばー」
「まあ、そうですけど……」
「この案件が終わったら落ち着く、……はず」
言い切れないのが悲しい。
犬塚さんからのメッセージにも、暫く返信できてない。既読無視するなんて酷い男だ、でも、時間がない。
うう、本社が憎い……。
支社だったら、喫煙所に抜け出す時間も、後輩くんをからかう時間も、帰宅後にゲームする時間さえあったはずなのにぃい……。
キーボードを打ちながら支社の先輩や後輩くんたちを思い描いていると、目の前のパソコンの画面がぼやけてくる。別に泣いてないよ。泣いてないのに視界がぼやけて、――あれ、おかしいな、と思う頃には、ぐるんぐるんと目が回り――どすん、という音を何処か他人事のように聞いた。
――40℃近い高熱が出て倒れたってことは、後に知ることになる。
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