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第9話
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――ここから先のことは、意識がなかった時の出来事だ。
仕事で無茶をし過ぎた俺は、文字通りぶっ倒れた。急に目眩がしたと思ったら、ばたり、だ。全身が熱くてじんじんする。もう何も考えられない、と思った直後、意識が飛んだ。
「ッ、先輩、駿河さん!? 医務室に運びます!」
後輩の焦った声が、オフィスに響く。急な出来事に、皆、仕事の手を止めて此方を見ている。意識があったら謝り倒したいところだけれど、身体も頭も動かなかった。
後輩が近付いてきたと思ったら、躊躇いもなく俺を抱え上げた。事もあろうか姫抱きだ。うっ、犬塚さんにしかされたことないのにい。だが俺は、はあはあと荒い息で汗をかくことしかできない。身体にも力が入らず、だらりとする。
ざわめくオフィスを突っ切り、エレベーターに乗り込んで医務室にまで連れて行かれた。
流石本社、常駐している産業医が、熱を測ったり様子を見てくれたりして、「過労でしょう」とあっさりと診断を下してくれた。後から追いかけてきた上司が息を吐いて、「確かに働かせすぎたな」と頷いている。ううう、今更、遅いっす。聞いてたら言い返してやりたかったなあ。
「暫く休養が必要ですね」と産業医が頷くのに、「俺、家まで送って来ます」と後輩が言う。上司はそれに「頼んだぞ」なんて頷いている。
そんなやり取りも聞こえないまま、俺は再び姫抱きされるのだった――こいつ、さては慣れてるな。
――どうやって家に帰り着いたのかも知らない。タクシーを使ったんだろうが、気付いたら俺は、自宅のベッドの上だった。
ジャケットを脱がされネクタイを外されて、はあはあと呼吸がままならないのがしんどい。見慣れた天井すらぼやけて見えるし、相変わらず身体はひどく重い。
そんな俺に、覆い被さる一つの影。
その影さえもぼやけるけれど、俺にそんなことをするのは、一人しかいない。
頬に手が触れてきて、その冷たさが心地良く、つい擦り寄る。
「いぬづかさ、……」
「っくそ、」
呼び慣れた名前を呼んだら、聞き慣れない声での舌打ちが聞こえてきた。
「俺らしくねえ、……ねえ先輩、起きてください」
「?」
せんぱい、って最近その名で俺を呼ぶのは、二人だ。
ヘタレでメガネな後輩くんか、いけすかないイケメンの後輩か。
「恋人、呼びますよ」
「いぬづかさん?」
そして、俺の恋人、は、この世にただ一人だけ。
名前を呼ぶだけでなんだか安心して、ふにゃりと緩い笑みが出た。
「そう、そのひと」
「へへへ」
「あああ鬱陶しいなもう!」
がしがしと頭を掻いて苛立ったように言う後輩、解せぬ。
立ち上がったかと思うと俺の鞄を漁って、スマホを取り出した。
「ほら、スマホいじって! 恋人の連絡先出して!」
「はいー」
指示されると、その通りに動いてしまうのは熱のせいだ。
スマホの画面すら歪んで見える。
開いたメッセージ画面は、犬塚さんのメッセージで止まってる。『大丈夫か?』とか、『無理するなよ』『落ち着いたら連絡くれよ』と連なるメッセージに、きゅぅ、と胸ら辺が痛くなった。待たせちゃってたなあ。
自然と、指が、コールマークをタップする。
腕を組んで苛立った様子の後輩も、コール音を聞く。
1、2、3……ダメだ、繋がらない。
そりゃそうか、今は午後3時、普通だったら仕事真っ最中の時間帯だ。
なんだか無性に寂しくなって、スマホを持つ手が項垂れる。
「あーもう、貸してください。あんた今文字打てないでしょ」
「あー、えっちー」
「何言ってんですか」
スマホが取られた。
犬塚さんとのやり取りを見られる抵抗はあったが、取り返せない。
『駿河さんの後輩です』
そして、わざと俺に見せるようにしながら、送信メッセージが追加される。
『今駿河さんの家にいます』
『早く来ないと』
『大変なことになりますよ』
えっ、こいつ何言ってんの?
と後輩を仰ぎ見ると、ぱしゃり、と写真を撮られた。
ネクタイを外して上から二番目までボタンを外したシャツ、そして熱のせいで真っ赤な顔、熱のせいでぼやけた瞳、熱のせいで乱れた髪、が映った写真を、あろうことか犬塚さんに送りやがった!
「なに、なにしてんの」
「こうしたらきっと、駆けつけてくれるかなって」
にっこり笑ってスマホを揺らす後輩は、マジのガチで性悪だ。
うう、犬塚さんに嫌われたら、末代まで祟ってやるからなー。
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