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7-2 拒絶するのは心のありかを知らないから
どのくらい、闇の中にいたのか。不意に触れた甘い味に、手放した意識が僅かに目を覚ます。
死に体の半分は埋まっているはずだ。今更引き留める事などできない。思っても、触れる熱い甘みはドロリと俺の中へと流れてくる。
泣いているのか?
ふと、悲痛な声が呼んでいる。流れる甘みは俺の中へ流れてきて、膨大な魔力を分け与えてくれる。受け取りたくないのに、飢えた俺の体は欲している。無理矢理意識が覚醒していく。
――さん
あぁ、あのバカ泣いてるのか。本当に、遅すぎるだろ。
――ごめんなさい、グラースさん
今更おせぇよ、本当に。第一、何に謝ってるんだ。
――死なないでください
誰がこんなにしたってんだ。お前だよ。
――愛しています。お願いです、目を開けて
お前の愛は、俺とは違うんだ。俺にはお前の心が見えない。
――私の全てをあげます。必要なら、この血全てをあげますから!
俺の意識は加速的に浮上した。多量に入り込んだ魔力が空の器を満たしていくように、生き返っていく。その感覚に俺が驚いた。あいつの声が、聞こえなくなった。
目を覚ましてまず驚いたのは、口から溢れるほどに入り込んでいた生温かな血だった。
状況が理解できずに動けない中、俺の上に体を預けるように縋るランセルが目に入った。その体に力は入っていない。瞳は閉じたまま、俺の口元に手を当てている。
その手は、真っ赤になっていた。直ぐに切ったのだと分かって、俺の背筋が寒くなる。腕の中のコイツは出血多量で気を失ったのだ。
「ランセル!!」
俺の声を聞いて、直ぐにハリスが駆け込んできた。そして、僅かに上半身を上げている俺を、そして俺に縋り力なく落ちるランセルを見て血相を変えた。
「ランセル様!」
直ぐに切った部分の治療がされて、運ばれていく。それを、俺は震えて見ていた。
どうして、こんな事をした。なんでそこまで俺に執着する。あいつは、バカなのか。イカレてるとしか思えない。俺を助ける為に、飢えた獣の口に生き血を流し込んでいたのか。
やがて、ハリスが俺の側にきて、ランセルの状況を伝えていった。眠っている事、命に別状はない事、それでもしばらくは休息が必要な事。
俺はその全てを俯いて聞いていた。
「…グラース様、嫌なら今のうちにここを出るっす」
「え?」
「今ならランセル様、動けないっすよ。数日、目が覚めないと思うっす。だから、安全に出られるっす」
静かに言うハリスの言葉を、俺は考えていなかった。
そうだ、出られる。あいつに見つからずに、追われずに逃げられる。それをしてもいいと、ハリスは言ってくれている。
でも俺は、そもそもその考えが無かったことに驚いた。昔の俺なら直ぐにわかっただろ、今なら逃げられると。
「…でも本当は、いて欲しいっす」
「え?」
「ランセル様の苦しみを、終わらせてあげられるのはグラース様だけっす。だから、側にいてほしいっすよ」
「あいつの、苦しみ?」
俺の問いかけに、ハリスは静かに頷いた。
「竜人族は子供が少ないっす。だからこそ、子供が出来ない嫁を無能だと思うっす。一般の家ならそれでも、当人が良ければいいと思うっす。貴族の家でも、たまにお小言を言われても待ってくれるっす。でもランセル様は王子っす。子供ができないと、血筋が途絶えるっすよ」
「……」
それは、分からないではない。だからあいつは子供が欲しいんだろ。その器に、俺を選んだんだ。
「ランセル様の父上、緑竜の国王様はとにかく焦っていて、ランセル様にことあるごとに娶せるっす。薬を盛って、興奮させて、我慢出来なくなるまで監禁したところで相手を部屋に放り込んで、薬使って。それをもう、100年以上させられてるっす」
壮絶な話に、俺は息がつまる。あいつは、だから壊れたのか? 仮面を被ったような仕事の顔は、あいつを守る為のものか。あいつは、どうしてそれを受け入れ続けたんだ。
「今回、ランセル様がグラース様にしたことは、畜生にも劣る事っす。拉致して、監禁して、無理矢理興奮させて犯し倒すなんてとても容認出来ることじゃないっす。ってか、犯罪っす。でも、知って欲しかったっす。あの人はそんな関係しか結べなかったっす。そんな方法しか、知らないっす。愛し方を、過ごし方を知らないっす」
バカな奴。器用なくせに、どうして逃げない。俺を攫う度胸があったなら、テメェが出る決断も出来ただろ。
愛し方を知らない? 当然だ。俺だって知らないが、少なくとも俺は両親に愛されてきた。気の良い部下との時間を楽しいと思えた。だから、愛情ってものが温かい事を知っている。心地よい時間の過ごし方を知っている。
「両親は、あいつをどうやって育てたんだ」
「国王様にとっては跡取りってだけで、他は。王妃様はしばらくは側にいても、直ぐに若い男と入れあげて出てったって聞いてるっす。ランセル様はずっとこの屋敷で、一人で過ごしてたって聞いてるっすよ」
俺は、動けなくなっていた。あいつの狂気に晒されながら、それでも必死に俺に縋った不器用でバカな男を、捨てきれなくなっていた。
「俺は、子を産む道具か?」
「まさか! ただ、子供が出来ないと周囲が納得しないっす。好きな気持ちだけじゃどうしようもないし、子供が出来ないとお嫁さんは酷い扱いっすよ。ランセル様の気持ちが変わらないなら、もしかしたら命も危ないかもしれないっす。だからこそ、先に子作りして、憂いを断ってからじゃないと結婚なんてできないっす」
どうしてあいつは、そういう大事な事を話さない。どうしてあいつは、自分の身の上を話さない。
俺は何も知らない異種族だ。子供の多い獣人族の俺に、お前の苦悩や事情は一切伝わらないんだぞ。
「グラース様…」
「…腹、減った」
言えばハリスはパッと表情を輝かせて、軽い足取りで部屋を出ていった。
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